【そういうこと】
夕食も入浴も済ませ、あとはもう自室へ戻って寝るばかり。
そんな状況下で、獅子神は両手に一つずつ持っていたコーヒーカップをリビングテーブルへ置き、そのまま席に着いた。カップの中身はどちらもカフェインレスコーヒー。
一日の終わりにコーヒー一杯分の時間を語らうのが、恋人が宿泊する際のルーティーンだった。
話題はその日一日の他愛のない事についてが大半。
対面に座る彼の恋人――叶黎明は、一方のカップを己の方へ引き寄せながらいつもの調子で口を開いた。
「オレはトップが良い」
それだけ言ってコーヒーに口を付ける叶に、獅子神は眉を顰める。
「……あ?」
「最近ずっと探ってただろ? 答え合わせだよ」
叶は唇を一舐めして返した。
「だから、何がだよ」
「無駄な問答は好きじゃない」
そう言った叶の口角は上がっており、言葉ほどには不快を感じていない様子を晒していた。だが、獅子神の表情は晴れない。
獅子神が流して欲しいと言外に伝えた話題を、察していたはずの男が今夜のトピックスとして明言するのを感じ取ったからである。
「ポジションの話だ。セックスの」
果たして獅子神の予想通り、叶は今夜の語らいの開始を宣言した。
顰めた眉を更に寄せる獅子神の手を、テーブル越しに叶が包むように握る。
「今夜は同じベッドで眠ろうぜ、ハニー」
「喜んで、ダーリン。とか言っときゃいいのか?」
艶声の囁きに獅子神は片眉を上げ、握られていた手を振り叶の手を払った。
抵抗なく放された手に、安心したように小さく溜息をつく獅子神。それを眺めながら、叶は手持ち無沙汰になった手を少しだけ引いて、深く座面に座り直す。
「まあいいけどよ。……そ、ういう、頃合いだろうとは思ってたしな」
獅子神は引っ込める機会を失ってしまった両手のやり場に少しだけ迷ってからカップを包んだ。落ち着かない指先のせいで液面が揺れる。
「ン? 体の関係を持つ? 頃合い?」
「探ってんのバレるのが!」
頬を染めた獅子神が上げた大きな声に、叶がわざとらしく肩を竦めてみせた。
――獅子神と叶は恋人同士だが、まだ体の関係はない。
それどころか、二人きりで同じ部屋に寝たことさえ。
獅子神の家には叶用の寝巻も着替えもメイク道具もあり、不自由なく過ごせる状態であったし、まさに今、獅子神が両手で包んでいるカップだって叶が持ち込んだ、彼のグッズだ。
つまり、獅子神の家にはもう十分過ぎるほどに叶黎明≠ェ浸食しきっている。
その上互いに互いへ性欲を抱いていることも知っていた。普通ならとっくの昔に一線を越えている状況。
そんな状況下で二人が清い交際を続けてきたのは、セックス以外の楽しみが多くあったこともあるが、獅子神が持つ臆病さが最大の要因だった。
――では、何故今更一線を越えようとしているのか。
それは叶が、最大の要因≠フ解消を観測したからである。
一線を越えるにあたって、同性である以上はじゃあ、流れで≠ニいうわけにもいかないだろうと考えた獅子神。
彼が先に叶を探り始め、それを察した叶が獅子神の恐怖心を他の感情が上回った≠ニ判断したのだ。
そこまでを遅れて理解した獅子神は僅かに頬を染め、「ンン゛!」無駄だと知りながら咳払いで諸々を誤魔化した。
そして乾く喉に、コーヒーを流し込んでから口火を切る。
「……で? 上がいいって?」
「そ。敬一君が薄々勘付いてた通り」
叶は背を起こし、テーブルに身を乗り出した。
「あ、でも別に、ボトムがやりたくないワケじゃないから、そこは勘違いするなよ」
叶の言葉はつまり、明確にトップを希望する理由があるということ。
獅子神が目線で続きを促すと、叶は乗り出していた体を支えるように天板へ肘をつき、組んだ指先の背に顎を乗せる。
「オレはさ、敬一君を観測したい」
叶が目を細めた。特徴的な絵柄を張り付けた瞳が半分隠れる。一方で、赤い瞳に映る獅子神の顔は呆れたものになった。
「それはどっちでも出来るだろ」
獅子神は強い口調で言い切る。ポジションがどうであろうと、叶の観測に影響はないという確信からくる断定だった。
叶はその言葉に、笑顔を引っ込めてぱちぱちと数度瞬く。
それを視認した獅子神は一拍遅れて、まずは≠ニいう言葉を脳裏に浮かべた。
――まさか、途中で交換しよう≠ニか言うつもりだったんじゃ?
その考えは叶の瞬きを、獅子神にバレたことに対する驚き≠セと解釈したため。叶黎明がどこまでも観測者であることを知っているからこその想定だった。
「は、ちがうって」
けれども、それを観測した叶はあっさりとその疑いを否定した。
怪訝そうに唇を歪ませる獅子神とは対照的に、叶の口元は綻んでゆく。
「もっとオレを見てくれよ、敬一君」
その言葉に、獅子神はじっと対面の恋人を見詰めてやる。
ニタニタと笑う男と、その男を睨むように見詰め続ける男。恋人同士の語らいというよりも、もはや取り調べのようだった。
それに気付いた叶が、数秒と耐えきれずに吹き出す。
「……オイ」
「フ、だって、すっげぇ、ハハ、真剣に…!」
叶は一頻り笑ってから、「オレは」再び口を開いた。
「敬一君が思うよりずっと、敬一君が好きなんだ」
それはドーモ。獅子神が嫌味たっぷりに吐き出そうとした言葉は、喉元を過ぎる前に再度飲み下される。
「だからきっと、」
そこで漸く獅子神は、常に明瞭な発音で話す叶が僅かに口ごもっていることに気が付いた。次いで、彼の頬が常より赤く染まっていることにも。
「敬一君に抱かれたら、オレ、トロットロになっちゃう」
へらり。
叶は、そう形容するのがしっくりくる、情けなさを滲ませた照れ笑いを浮かべた。
そして今度は、それを認識した獅子神の頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
防衛本能から、獅子神の両手は弾かれる様に上げられるところだったが、いつの間にか叶の両手によってダイニングテーブルへ縫い付けられていたために動かなかった。
獅子神の視線が反射的に封じられた両手へ向かうより早く、「ねえ、敬一君」今度は声でもって視線を己の瞳へ縫い付ける。
自らよりもずっと赤く染まってしまった恋人を見詰めながら、叶は告白を続けた。
「溺れなきゃいい話だって、わかってるんだ。でも――」
「オレ、敬一君とそんな冷めたセックスしたくない」
「だから悪いんだけど、ボトムやって?」
「なあ、」
獅子神の拘束された両手の甲を、叶の長い指が撫ぜる。
「だめ?」
小首を傾げ、甘えるような声色で発せられたそれ。
獅子神が叶から甘えられることに弱いと知ったうえで繰り出された仕草。
獅子神の唇が強く引き結ばれたことに、叶は己の要望が通ることを確信した。
「なあ、敬――」
「もう読めてんだろうが」
駄目押しに囁かれた艶声を、ぶっきらぼうに発せられた言葉が遮った。
叶へと向いていた視線は制止の声と同時に、羞恥に耐えきれず顔ごと背けられる。
常ならば直ぐにでも自分の方を見るよう抗議する叶だが、晒された恋人の首筋や耳の熟れ具合に言葉が詰まった。
眼球が潤むほどの羞恥を感じながらも、獅子神は両の拳を強く握るだけで、叶の手を振り払わない。――逃げない。
獅子神が己の意思で、逃げないことを選択した。
たったそれだけのこと。けれど臆病者には何より難しいこと。
そんな恋人のいじらしい姿に、叶は生唾を飲んだ。
自身の頭に響いた嚥下音で、己の顔付きが良くないものになっていることに気付き慌てて繕う。
「準備してきたんだもんな。エライぞ!」
叶は誤魔化すように立ち上がり、テーブル越しに両手で獅子神の頭髪をかき混ぜるように撫で回した。
「だーっ、もう、やめろ! バカ!」
獅子神は唐突にじゃれついてきた男に満更でもない様子だったが、誤魔化すために声を荒げてみせる。
視界の外で恋人がどんな顔をしていたのかも知らずに。
「ああ、もう! 仕方ねえから譲ってやるだけ!」
暫く叶の好きにさせてから、一向に止める気配のない腕を払った。
「当然、ヘタクソだったら交換だからな!」
「わかってるって」
染まった頬のまま強がりを放つ獅子神に、叶は緩く微笑んだ。
それを余裕の笑みだと解した獅子神は、不機嫌そうな顔を作り、鼻を鳴らして立ち上がる。
そしてすぐにカップを二つ手に持ち、キッチンへと足を向けた。
どちらのカップにもまだ中身が残されていたが、叶は語らいの終わりを受け入れ――というより単に彼も待ちきれずにいたので――獅子神の後に続く。
笑みを浮かべていた叶は、獅子神がシンクへ到達する前に思いついたように口を開いた。
「なあ、気付いてる?」
「あ?」
不機嫌顔のままで振り返る獅子神に、叶は猫のように目を細めて距離を詰める。親密な関係でしか許されない距離に、獅子神の体が僅かに強張った。
徐に叶の長い指先が、頬にかかった獅子神の前髪を払い彼の右耳に引っ掛ける。獅子神はわかりやすく緊張を露わにしたが、両手に持ったコップの中身のせいで上手く距離をとれない。
「オレの気持ちを探るってことはさ」
羞恥と戸惑いに身構える獅子神を見遣り、叶はにいまりと笑ったまま、囁いた。
「敬一君はどっちでもいいって、そういうコトだよな」
そのたった一言で呆けた顔を晒してみせた男の頬に、叶は愛おしそうに口付ける。
「カワイイね、お前」
「なっ、ば、…はぁ?!」
再び上気した頬に、叶はもう一度唇を落とした。