【物は言いよう】
獅子神敬一。
マヌケの中ではまだマシ。過去にそう評価した相手であるが、今もその評価にかわりはない。
そう、かわりはない。
しかし最近は件の男によって胸の下を撫でられるような感覚を度々引き起こされている。
それは例えば、彼の声が少しだけ上擦ったとき。ぎこちなく視線を逸らされたとき。私の言葉に頬を僅かに染めたとき。そんなときに胸の下を何かが撫ぜるような感覚がある。
獅子神自身へは何の感情も湧かないが、その感覚には苛立ちと不快感を感じている。
「なあ、礼二君」
ニヤニヤと品のない笑みを浮かべた叶がこちらをチラリと見た。顔は向けていないものの、叶の隣に座る真経津の意識もこちらを向いているのがわかる。
「敬一君のこと、気付いてるんだろ?」
「何が言いたい」
今日は昼過ぎ頃から獅子神宅に集合し、それぞれ気ままに過ごしていた。
先程からは、テレビゲームに興じる叶と真経津の様子を獅子神と私が眺めつつ雑談していたところだったのだが、仕事関係の知人からの連絡で獅子神が一時席を外している。
叶が問うているのはその獅子神から私への好意についてだろう。しかしそれは、言葉通りに私が気付いているか≠問うものではない。
彼らは獅子神が私に好意を寄せていることも、私がそれに気付いていることもわかっているからだ。
「どうするんだ?」
「どう、とは」
叶は器用にテレビゲームを続けながら話し続ける。
「わかってるだろ? このまま待ってたって敬一君は告白とかしてこないぞ」
「それが?」
「礼二君が動かないと一生このままってコトだ」
「不明瞭で要領を得ないな。本人がいないのだからはっきり言えばいいのでは」
「え」
叶は忙しなく操作していた手を止め、観測者≠フ顔でこちらを向いた。
どうやら私が話を理解していないのが信じられないようで、はぐらかしているのか本当に理解していないのかを観察しているらしい。
隠すことでもないので、特に繕うことはせず視線を合わせてやる。数拍にも満たない内に大きく瞳が開かれる。そして直ぐにその口も同じく。
「晨君ちょいタンマッ!」
「はーい」
真経津がテレビゲームを中断させるより早く、叶はコントローラーを置いてこちらに体を向ける。ようやく状況を理解したらしく、素で驚いているらしい。
「え、マジで? 礼二君ほんっとーに気付いてないの?」
「だから言ったじゃない」
真経津は何が面白いのかケラケラと楽し気に笑う。
「礼二君いいのか? 敬一君は礼二君が好きなんだぞ」
「何度も言わせるな」
「えー…でもこういうのって外野がはっきり言うの違う気がするな…」
「村雨さんは獅子神さんのこと好きじゃないの?」
「うわぁ、晨君馬に蹴られるぞ」
両者の間では成り立っているらしい会話に苛立ちを感じるが、何てことはない。彼らはいつだってこちらに合わせた会話をするつもりはないのだから。
「好意的な感情は持っている。少なくともあなた達に対して感じる以上にはな」
「なるほどなるほど…これはオレがしくったな!」
「じゃあ獅子神さんの気持ちに応えてあげるつもりはないんだ?」
「応えるも何も、獅子神は何も期待していないだろう」
「そうだね!」
嫌味の一つも意に介さず、わかりきったことを繰り返す質疑応答にうんざりする。
「でも村雨さんは違うんじゃない?」
「…は?」
「村雨さんはこのままじゃ嫌なんだよね?」
「馬鹿馬鹿しい。この話を続ける意味はないな」
「えー? だって獅子神さんを見てよくときめいちゃってるよね?」
真経津の口から飛び出した言葉にあった馴染みのない単語を理解するのに時間を要する。ときめく? 誰が? 何に? いや、誰に?
人生で一度も使う場面のなかった感情の表現である。が、言わんとしていることは理解した。どうやら誤解があるということも。
「…違う。あれは不快感を耐えているだけだ」
獅子神からの好意を認識した際に感じる不快感。あれをどうやら誤解しているらしい。
「不快感?」
「時々胸の辺りを撫でられる心地がする」
「撫でられる?」
「よしよしって感じ?」
手の平を下に向けて揺らす叶にわざとらしく溜め息を返す。
「そのせいで息苦しささえ感じているので、そんな可愛らしいイメージではないな」
不快感をあえて醸して発言しているにも関わらず、ニヤケ面をし続ける彼らに腹が立つ。「うーん、」大して言いにくさなど感じていないくせに、わざとらしく言い淀む真経津。「でもさぁ」会話を促してもいないのに口を開く。
「村雨さんは不快だったらここに来てないんじゃない?」
◇ ◇ ◇
獅子神敬一は私に懸想している。
それは本人に確認するまでもない事実だった。
上擦る声が。
逸らされる視線が。
染まる頬が。
それら全てが示している事実である。本人は隠しているつもりらしいが。
好意を寄せられること自体は不快ではない。
獅子神が私にどういった感情を抱こうと、私には何の影響もないからだ。
私にとって獅子神からの好意がただの好意であるように、獅子神にとっても私への好意はただの好意なのだ。
好きだから伝えたいだとか、好きだから振り向かせたいだとか、好きだから抱きたいだとか。そういった次≠ヘない。となると面倒事が起きる懸念もない。
だから好意を寄せられること自体に不快感を持ちようがないのだ。
(では何を不快だと感じているのか)
業務が落ち着いた頃をみて昼食を摂りつつ、くだらないことを思考する。
栄養素を補給するためだけの食事の味と忙しない業務内容を頭から遠ざけるためとはいえ、選んだ内容が良くなかったようだ。それもこれも、
『村雨さんは不快だったらここに来てないんじゃない?』
あの日の真経津の言葉が頭の片隅に在り続けているせいである。
獅子神が戻ってきたため話が中断されてしまい、半端に会話が終わったのが悪かったのだろうか。
わからない。
――わからない≠フは不快だ。
「村雨先生、お疲れ様です」
呼ばれた方へ顔を向けると、年若い女性看護師が緊張した様子で立っていた。
昼食を摂り終わるのを待っていたのは知っている。鬱陶しいほどにこちらの様子を注視していたから。
彼女は私と目が合うと、きょろきょろと視線を彷徨わせて頬を染める。
上擦った声で私の数日後の予定を聞き、返事も待たずに飲み会の開催を知らせてくる。
面倒だから、適当に相槌を打って話したいだけ話させる。
誰が参加するだの、会場がどうだの。よくもまあ、相手の反応もろくに観察せず話せるものだ。
少し離れた位置からこちらを見る数人は、恐らくその飲み会とやらの参加者だ。私が断るのを切に願っている。
私を誘うという案はほとんど目の前で話す彼女の独断専行なのだろう。
時々現れるのだ。
勝手に誤認し好意を抱き、勝手にその誤認に気付き離れていく。
そういう彼らは多種多様なタイプがいたが、鈍感だという点だけは毎度共通する。
どれほど鈍感かというと、大抵の人間が忌避する私のような人間に容易く好意を抱くほど。
相手をよく見もせずに恋だなどと馬鹿馬鹿しい、呆れるばかりである。
そんな人間が私に何か影響を及ぼせるわけもなく。
故に暫く躱せばいいだけだ。
上擦る声にも。
逸らされる視線にも。
染まる頬にも。
なんの感慨もない。いずれ消えるまで待つのみだ。
労せずして時間がこの現象を解消してくれるのだから。気楽なものである。そうだ、何もせずとも時間が解決してくれるのだ、いつだって。
「あのぅ…先生?」
――獅子神と何が違う?
唐突に気付く。そうか。そうだったのか。
「申し訳ないが、遠慮させて頂く」
え、と彼女の表情が引き攣った。自らの容姿の良さを自覚していたようだったので、断られるなど微塵も想定していなかったようだ。勿論、こちらの狙い通りである。
そうして思考が停止している間にさっさと席を立つ。
「私は飲みの席が苦手なので」
「あ、そうだったんですね…アハハ…」
「だが」
「誘ってくれて」当然嘘である。
「ありがとう」これは心から。
◇ ◇ ◇
私はようやく獅子神とそれ以外からの好意に対して、私自身の感じ方が全く違うことを自覚した。
正しくは獅子神からの好意を感じた時だけ、私の中で感情が湧き上がるのだ。
他の誰からの好意にも心を動かされたことはない。
獅子神とその他大勢で何が違うのか。
次≠ヨの期待があるかないか? そんなもの問題ではない。あろうがなかろうが、次≠ヘないのだから。
なんてことはない。違うのはただ一点。獅子神敬一という人間が私にとって特別だという点だけ。
「よお。オメーが一番乗りだな」
数日ぶりにギャンブラー三人と過ごすことになり訪れた獅子神宅。チャイムの音にすぐ駆けつけ出迎えた家主は、私の顔を見るなり嬉しさを滲ませる。
「早過ぎただろうか」
「いや、問題ねーぜ」
早く着いてしまいそうだと事前に連絡をいれていたので獅子神にとっては予想外でも何でもない。
だから彼の中に焦りや驚きはなく、純粋に喜びだけがある。
約束の時間より少し早い。つまり、約束の時間までは二人きりだという状況に静かに歓喜しているのだ。
「村雨なに飲む?」
「ではコーヒーを」
「ん、りょーかい」
私の感情に変化が起きるのは、少しだけ上擦った声をきいたとき、ぎこちなく視線を逸らされたとき、頬を僅かに染めるのを見たときだけではない。
こうして穏やかに過ごしているときだって、ふとした瞬間に胸が詰まるのだ。
そう気付けば、胸に湧き上がるこの感覚も不快感などではないのだとわかってしまう。
(これが恋、という感情なのだろう)
さぞあの二人は楽しかったに違いない。己の恋情に微塵も気付かない滑稽な私を揶揄うのは。
腹立たしいが、今回ばかりは感謝すべきだ。…非常に腹立たしいが。
「なんか今日機嫌よさそーだな」
そう言って獅子神は私の前にコーヒーを置き、対面に着席した。自分の分のコーヒーも淹れてきたらしい。
真経津や叶が時間通りにやってきたとしても、まだゆうに三十分以上は時間がある。
「良いことが起こる予定だ」
「…相変わらずよくわかんねーなオメーはよ…」
この男の性質も美点も欠点も知っている。
けれどまだ足りない。暴き足りない。覗き足りない。
「フフ、あなたは可愛らしいな」
「……はあ? どうした先生。お疲れか?」
――さて、どうやってこの男を手術台に乗せてやろうか。
何の警戒もしていないので容易いことだろう。あの二人がやってくる前に片が付くに違いない。