【妥協案と最適解】
思惑が一致している。
同じ目標に向かって協力する場合にはそれは上手く作用するだろう。
しかし同じ目標に向かって対立する場合にはむしろ競争は激化する。
つまり一致しているからこそ上手くいかない≠ニいうことは往々にしてあるわけで。
獅子神と村雨については今まさにそういった状況であった。
「…は…、」
「ふ、…ン…」
獅子神宅のシアタールームに、二人の姿はあった。
ソファーの上、獅子神は村雨に覆いかぶさり、彼の額を片手で抑えつけて噛みつく様に深く口づけている。
もう一方の掌は耳を撫で、硬い髪をかき混ぜる。
まだ日が落ちきらない時間帯だったが、採光窓はブラインドでしっかりと遮光されており空の色はわからない。
その上、二人が並んで腰かけていたソファーは二人掛けだがゆったりとしたサイズである。
さすがに成人男性二人が並んで♂。たわるには狭すぎるが、重なり合う≠ネらば許容範囲内だ。
ことに及ぶ≠ノは最適な薄暗さと十分な広さ。
先に仕掛けたのは獅子神で、ソファーの上に村雨を押し倒して現在に至る。
「…ん…し、しがみ」
重なった唇が離れたとき、吐息交じりに村雨が獅子神を呼んだ声には制止の意が含まれていた。
鑑賞していた映画のエンドロールがおわり、室内は静まり返っている。
聞き逃すはずのないその声を無視し、獅子神の唇は村雨の首筋をたどり始めた。
器用にもシャツの第一、第二ボタンは早々に外され、襟ぐりはいとも容易く広げられる。
「ししがみ、」
村雨は無視されたことへの憤りも込め、自分に覆いかぶさる男の肩を軽く叩きつつ、より一層はっきりと発した。
が、獅子神もまた、自分に引く意思がないことを示すために村雨の喉仏を柔く食んでみせる。
「ステイ」
「……ステイってオメー…オレは犬じゃねーぞ」
聞く耳を持たない年下の恋人への呆れも加えたその声は、ようやく彼の動きを制するに至る。
制された当人は、むっとしている体をとりながらもそこまで気にしてはない様子で、少し身を起こし村雨を見下ろす。その視線は行為を続けていいのかを慎重に探っていた。
「シットだ、獅子神」
「ふは、だから犬じゃねーって」
村雨の発言により、待機ではなく中止の意であることを察して獅子神は起き上がった。
気に入らないというポーズはもはや取ることは出来ず、笑っているのを隠し切れていない。
村雨の発言はともすれば獅子神を軽んじているともとれるものであったが、実際にはそうではなかったし、時折発せられるこうした気安い物言いを獅子神は面白がった。
「で? なんだよ。怖気づいたのか?」
遅れて起き上がった村雨は乱れた髪を軽く整える。
「あなたは今から肛門性交をしたいと考えているのか?」
「……先生、ムードって知ってるか?」
村雨は眉根を寄せ、不機嫌さを隠さずに口を開く。
「あなたが性的に興奮しているということはわかるが、挿入までとなると準備が必要なので」
「あー…」
「そして準備するにはまず、ポジションを明確にする必要がある」
恋人の言わんとしていることを理解し、獅子神は一拍考える。回答を迷ったわけではなく、どう伝えるべきかを逡巡したためだったが、素直に口に出すことにした。
「…俺は下はやらねーぞ」
「下、とはボトム役ということか?」
「そう」
「なるほど」
獅子神がトップ役を担うつもりで行動を起こしたということは勿論村雨も理解していたところであったし、獅子神も村雨に理解されていることを承知済みでもあった。むしろ理解させるために押し倒したと言っても過言ではない。
にも関わらず、わざわざポジションについての話し合いが始められようとしている理由が、獅子神にはわからなかった。
正確に言えばたった一つ頭を過ぎった可能性はあったが、それを信じたくなかった。
「拒否する」
「………」
村雨が獅子神に触れられたくない、または獅子神と性行為を行いたくないという可能性。
村雨の言葉に一瞬で獅子神の血の気が引く。
「勘違いしないで欲しい。私もあなたと肛門性交をしたいと考えている」
きっぱりと言い切った村雨に、獅子神はわかりやすく安堵した。
「ボトムが嫌ってことか?」
「それについても嫌ではない。あなたと愛し合うにあたって、ポジションなど些末なことだからな」
「…恥ずかしいヤツ…」
「あなただってそうだろう?」
「いや、話聞いてたか?」
聞いていたかと言ったものの獅子神側の主張は間違いなく伝わっているため、彼にはこれ以上話せることはなかった。
となると大人しく気難しい恋人の話を聞くべきだろうと、傾聴する姿勢を示す。
「っつーか、じゃあ何を拒否するんだよ?」
「あなたの案を、だ」
「ワケわかんねーよ」
「私がトップ役をした方がいい理由は三つある」
「……ドーゾ」
相変わらず話が?み合わないな、と感じつつも獅子神は続きを促した。
「まずひとつ目だが、負担の大きさだ。より安全に肛門性交を完遂するためには、小さい方の性器を挿入した方が負担もリスクも少なくすむ」
獅子神は村雨の諭に納得しつつも、何か引っ掛かりを覚える。
「よって、標準的なサイズである私の性器を使うのが良いだろう」
「…ちょっと待て」
「私たちの性器はコンドームのサイズで言えば一つ、メーカーによっては二つ違うから負担は段違いだ」
「え?見たことないよな?」
村雨は多分に呆れを含ませた溜め息を零し、仕方なく口を開いた。
「私との性行為を意識し始めた頃、」
「いい! 皆まで言うな!」
獅子神はキスやハグなどのスキンシップに慣れた頃に念のためだ念のため…≠ネどと自分に言い訳をしながら各所に置いたコンドームとローションに思い当たり制止したが間に合わず。
「後で私のサイズも追加しておくように」
「だぁーッ! そういうのはスルーしろ、スルー!」
ひじ掛けにもたれて頭を抱える獅子神を気にすることなく村雨が続ける。「次にふたつ目だが」
「もうわかった、オレが下でいいよ先生…」
「ふたつ目だが」
「……ドーゾ…」
降参を受け入れられないことを察し、獅子神は仕方なく続きを促した。
余計な傷は抉られたが、ひとつ目の理由がもっとも彼自身が気にしていた点であったため、村雨がそれを理由にボトムを拒否するのであれば仕方がないと考えていたのだ。
だから残りの二つの理由などすでに聞き流す気であった。――のだが、
「臆病なあなたにおっかなびっくり触られることを思うとうんざりする」
「いや、言葉を選べ、言葉を!」
聞き流せるような発言をしないのが村雨である。
獅子神は不名誉極まりない発言に声を荒げつつも、その場面を容易に想像できるが故に否定することが出来ない。男を抱いた経験などないし、その上受け入れるように出来ていない体――そもそも受け入れるトコロでもない――を扱うのだから慎重にもなるだろう。程度も塩梅も分からないのだ。ほぼ確実に獅子神はおっかなびっくり≠ニいう状態になり、最悪は村雨に自らの具合について実況させることになる。
そこまで考え、獅子神は実現可能性の高い自らの醜態に思わず再び頭を抱えた。
「私は逐一報連相の徹底を強いられる性交渉はしたくはない」
「オレだって嫌だっつの!」
「その点私は人体について熟知しているから、あなたの自己申告を無視して最大限高めてやれる」
「いや、無視するなそこは…」
たった数分の口′bナあったが、獅子神は要らぬ疲労感でいっぱいである。
すでにひとつ目の理由で納得していたのに何故こうも追撃されねばならないのか。獅子神は恨めしい顔で村雨を見る。
もはやみっつ目の理由などは聞きたくもなかったが、この男が話さず終わるわけがない。故に、
「で? 最後の根拠は。理由は三つあるんだろ?」
言外にこれ以上の口撃はやめてくれよ、という気持ちを込めるだけ込めて続きを促す。
村雨はそんな獅子神に構わず、これまで通りの調子で口を開いた。
「あなたが求めていないからだ」
村雨からするとひとつ目の問題よりもふたつ目の方がより一層問題であったし、さらにふたつ目よりみっつ目の方がますます問題だったが、言わんとすることは当の獅子神には伝わっておらず怪訝な顔をされるだけだった。
村雨は、わからんのか?と言いたげな呆れ顔をした後、少し考えて再び口を開く。
「あなたは私にボトム役をさせたいのか?」
「あ? さっきからそう言ってるだろ」
「あなたはトップ役をしたいのか?」
「だから、そう――」
獅子神が言い終わるより早く、ずいと距離を詰め村雨は細い指をピシリと恋人の胸元に突きさした。
二人掛けのソファーの上で突然パーソナルスペースに侵入された獅子神は反射的に身を引こうとしたが、身を引けるスペースなどなく、結果一人分のスペースに大の男二人が収まる形となる。
「なぜ嘘を吐く?」
「は? 嘘?」
獅子神は上目遣いに睨め付ける恋人にドギマギしながら息を飲む。勿論、トキメキからでは全くない。
「あなたは私にボトム役をさせたいとは思っていないし、トップ役をしたいとも思っていない」
は、という形で小さく開く口。疑問符を浮かべて見張る目。村雨は恋人のマヌケな表情を少し可愛いと思いつつも、なればこそ止めを刺す。
「あなたにとってそれは妥協案だ」
村雨は獅子神の胸にさした指を離し、するすると獅子神の右手の甲を撫でる。
「あなたは私があなたに性的な興奮を感じないのではないかと考えている」
そのまま、何も言えずされるがままの獅子神の右手に五指を絡めていく。
「だから、消去法でポジションを決めたのだろう」
体をさらに寄せると獅子神の左手が村雨を押し返すべく動き出そうとしたが、それより早く村雨の空いた手がそれをソファーへ縫い付けた。
もはやのしかかっていると言ってもいいくらいの体勢となったがために、もうお互いの瞳にはお互いしか映っていない。
「あなたの妥協案に付き合わされるのはごめんだ」
村雨は、笑っているようにも不機嫌そうにも見える顔をして言う。
「つまり、あなたの妥協案を拒否する」
ひとつ目、ふたつ目も確かに理由ではあったのであろうが、最も大きな理由はみっつ目だったのだと獅子神はようやく村雨の伝えたかったことを理解した。
つまり村雨は、一人で思案し勝手に結論を出した獅子神に憤っていたのだった。出した結論に獅子神が自分自身を蔑ろにした部分があったため猶更だ。
村雨は自分勝手に獅子神を振り回しているように見えて、実際には己と獅子神を対等に扱いたがった。
それは村雨がそうするだけでなく、獅子神自身にも求め、怠ることを許さない。
「……悪かったよ」
わかりにくいが、しかしどこまでもストレートな村雨からの愛情に獅子神は少し照れくさくなる。
「映画も終わったし、どうする? 次観るか? それとも、」
獅子神は恋人に絡めとられている右手を離そうとして、全く離れる気配のないことに気が付いた。いや、わかったから、そろそろ離れてくれよ。そんなことを考え村雨を見たが、当人は獅子神の考えを完全に読んだうえで無視し、ふてぶてしくまた口を開く。
「そして私がトップ役をしたい理由だが」
「は? それは今聞いただろ…」
と、言うか次回に仕切り直しになったのだと思っていたのだが。という獅子神の考えも完全に読んだうえで今度は返答してみせた。
「マヌケ、まだ話は終わっていない。いま話したのはした方がいい@摎Rで、したい@摎Rは別にある」
獅子神は、ほとんど同じだろ? そう口にしようとしたが、滅多に見せないような笑顔を顔に貼り付けた村雨にギクリと動きがとまる。
絡められたままの獅子神の右手に、村雨が唇を寄せた。猫のように細められた目が、赤く染まった獅子神の顔をじっと見つめる。敏感になった恋人の手の甲を震わせるように、村雨は言葉を零す。
「私は、愛されるより愛したい」
「…へっ?」
村雨は楽し気な顔をしたまま、ソファーに縫い付けていた獅子神の左手を導いて己のスラックスの前立てを撫でさせた。触れた場所が平常時の様子ではないことに気付いた獅子神の頬が、ますます染まっていく。
「え、あ…、へ?」
「この通り私はあなたに性的な魅力を感じているし、なにより――」
村雨は唇を恋人の赤く熟れた耳へ寄せ、吐息交じりに吹き込んだ。
「あなたは愛される側が向いている」
瞬間、獅子神は村雨に掴まれた両手を振りほどき、ぞわぞわと反応してしまった耳を覆う。
村雨はわざとらしく両手を軽くあげながら、ニヤリと笑った。
「決まりだな」
「オメーはさぁ…!」
「反論があるのか?」
「……っねーよ! ねーけど!」
してやられた、と拗ねた体をとる恋人の姿に、村雨は満足気な笑みを深める。
獅子神は茹る思考を冷ましつつ、これから≠フ段取りを考え――
「あ」
自分のサイズのコンドームしか用意していない、どうする? 獅子神がそう思ったところで、村雨が己のスラックスのポケットに右手を差し込んだ。
「心配するな」
再び現れた右手の指先には、標準サイズのコンドームがいくつか挟まっていた。
「私はあなたを愛する準備は怠らない」