【キスの日ネタ】


口付けたい。そう思い、その衝動のままに口を開く。
「目を閉じろ、獅子神」
「え、あ、なんだよ?」
直前までリラックスしていたはずの獅子神の体が、とたんに緊張した。視線は最小限の動きでもってこちらの様子を観察している。
目を閉じる、という行動に対する恐れのために、私の言葉の意図が伝わっていない。
しかたなく獅子神の両頬を両手で包んで、口付けたいという衝動を控えめに伝えてやる。当然動きはことさらゆったりと。怯える獣を刺激しないように。
「あ、ああ…はいよ」
そっと長いまつ毛に縁どられた瞳が閉じられる。しかし、閉じられたのは瞳だけだ。他の感覚器官はむしろ鋭敏になっている。試しに少しだけ深く呼吸してやると、獅子神の指先がピクリと小さく跳ねた。
少し寄せられた眉は獅子神の感じているストレスの現れに違いない。まるで、

――なつき始めたばかりの猫のよう。


 ◇  ◇  ◇
口付けたい。そう思い、その衝動のままに口を開く。
「目を」
「ん」
直前までこちらを気にしていなかった獅子神が、私の言葉でこちらに体を向ける。そのまま何の躊躇いも警戒もなく、目を閉じた。あまつさえ背を少し丸めてさえみせる。
いつぞやの反応とは全く異なるそれ。
「なんだよ、しねーのか」
「いや」
獅子神の両頬を両手で包んだ。獅子神は終始リラックスしており、唇は緩く弧を描いている。そのまま両手を首筋へ下ろし、親指で太い血管の上を確かめるように撫でさすってみる。筋肉がヒクヒクと収縮した。笑っているのだ。
瞳を閉じたまま。
「は、くすぐってぇ」
閉じたままの瞼に口付ける。親指を滑らせ、気道に引っかけた。目の前の男の、拒絶のサインを観察する。けれども確認できない。全くの無防備だ。
「なんだよ?」
「フフ、なんでも?」
獅子神の声にはほんの僅かな警戒も恐怖も、滲んでいない。愛おしさにだけ濡れている。
ようやくだ。私はようやく、この男に受け入れられたのだ。
愛しい恋人に噛みつく様に口付ける。ああ、

――この男は真実もう、私のもの。


◇  ◇  ◆


「目を」
短い村雨の言葉の先を察して目を閉じようとしたところで、常々思っていたことが頭を過る。目を合わせたまま唇の端を上げてからかうように口にしてみる。
「先生は本当にキスがお好きですね」
途端、村雨の機嫌が少し降下した。おや、と思う。マヌケとでも言い放ってからすぐ噛みつくようにキスされると思っていたから。
若干悪くなった目付きでこちらを見据え、「マヌケ」半音低い声で言い放たれる。どうやら予想は半分当たったようだ。
「読み間違えるな」
続いた言葉に今度はオレの方が引っ掛かる。
何だよその言い草。思い上がるな、自惚れるな、と言われたような気持ちだ。
けれどこれだけ頻繁にキスを求められれば、キスが好きなのだと期待したって仕方ないのではないか。
目を合わせていることが気まずくて、拗ねたフリをして顔ごと逸らす。悔しいよりも、恥ずかしい。「おい」さらに不機嫌具合の増した声に呼び掛けられる。
「読み間違えるなと言っている」
「ハイハイわかったっつーの。先生は別にキスなんかお好きじゃ、」

「私が好きなのはキスではなく、あなただ」

なんだって? 村雨の言うことを噛み砕くより先に、勝手に頬が熱くなる。どうやら熱烈な台詞だったらしい。言葉が帯びた熱量だけで耳がヒリついている。
「……あなたが好きだからキスがしたくなるのであって、」
「わかってるから言い直すな!」
「上手く理解できるよう言い直したまでだが?」
「お口チャックだ先生」
言い直されたおかげで内容を理解してしまい、一層顔に熱が集まってくる。呼吸がしにくい。とてもじゃないが、顔を恋人へ向けられない。
しかし気の長くない男が、納得いかないと気配で圧をかけてくるのを感じる。律儀に口を結んで会話の再開を待っているようだ。
じわじわと上がってくる体温を落ち着けるべく、努めて冷静に口を開く。「てかよ、」大丈夫、声は裏返っていない。
「どっちも一緒じゃねぇ?」
「一緒ではない、全く、少しも」
ようやく出た照れ隠しの言葉は即座に否定される。言葉選びを間違えた。
「間違えた? 違うだろう」
「うるせぇな」
「否定を求めて選んだ言葉だ」
「うるせぇってば」
もう何もかもが恥ずかしくて、手の甲で口元を隠す。そんなことしたって少しも隠せやしないし防げもしないとわかってはいるけれど。
「時に獅子神」
これ以上ペースを乱されたくなくて無視をする。
「あなたからはあまり口付けてくれないな?」
そう言った声にはほんの少し悲しそうな色が滲んでいたが、そう聴こえるように発せられただけだ。それくらいのコントロールは呼吸をするくらい自然にできることを知っている。
だから何の応答もしてやらない。逸らしたままの横っ面に、自分以外の体温を感じる。すう、と微かな呼吸音。
「私はとても寂しい」
耳に近付けられた唇から、直接囁くように吹き込まれる。
ああ、もう。どう考えたって嘘だ。そんなこと、思ってやしないんだろう。けれど、「嘘つくなよ」半歩下がって顔を向けてやる。
「まるきり嘘でもないが」
案の定、血色悪めの顔にはマイナスの感情など全くなかった。自らの思い通りに動くオレにほくそ笑んでいるだけだ。
でもこちらを見る目には愛情がいつだってたっぷりと塗りたくられている。過剰なほどに、疑いようがないくらいに、べたべたと。
その瞳を見るとどうしたって好きだと思ってしまうのを止められない。もしかしたら村雨もこんな気持ちなのかもしれなかった。目の前の男が可愛くて仕方なくて――
「ああもう、」
溢れそうになる気持ちをぶつけてやりたくなってしまうのかも。そうっと、努めて優しく薄い頬を両手で包む。
「閉じろよ、目」
村雨からすればオレの発言は想定内だろう。明らかに誘導されていて、それに乗っかっているのだから。
それなのに嬉しそうに頬を緩める恋人がどうしようもなく可愛い。が、瞼を閉じる気配は全くない。瞳に浮かぶ感情を見せつけてきているのだ。喜びとオレへの愛情だけが浮かんでいるその紅い目を。
「マヌケヤロー」
照れ隠しの悪態に、包んだ頬が一層緩むのを感じながらがぶりと噛みついた。