【眼鏡が喧嘩するはなし】
「最近目がすげぇ疲れるんだよな」
そう呟いたのは獅子神だった。その目の上には蒸しタオルが乗っている。
彼の職業は投資家であり、その職業柄外部の情報を常に収集する必要があった。当然書面などというタイムラグの発生する情報より電磁的な情報の方が重要度は高い。時代はペーパーレス。紙に代えて電子交付のみとする企業も多く、海外企業などはほとんどがそうだ。
そうなると当然、パソコンの液晶画面を見続けることで彼の眼球は酷使されることになる。
「適度に休憩を挟むべきだな」
獅子神は目元から蒸しタオルを離し、幾分スッキリした目頭をグイグイと揉みほぐす。
「わかっちゃいるんだけどよ…」
――という先日の出来事を、村雨は獅子神宅の玄関にて思い出したのだった。
そのきっかけは彼の目前で眼鏡をかけている獅子神だ。村雨が約束の時間に訪ねたところ、出迎えに現れた家主が見慣れない眼鏡をかけていたのである。
レンズ表面の反射光が普通の眼鏡とは少し異なっており、村雨はすぐに視力矯正用のレンズでないことを察した。
「ブルーライトカットレンズか」
「ああ、これ…忘れてたわ」
獅子神は自分の顔をじっと見つめている恋人に首を傾げていたが、その言葉で思い出したように眼鏡のテンプルを両手の指先で摘まんだ。カチリ。外そうと浮かせたために鼻パッドが小さく鳴る。
「待て」
「ん?」
村雨は獅子神の両手を掴み、下すように促す。獅子神は訳も分からぬまま大人しく従い、両手をテンプルから離した。その様子はおずおず、といったところ。刺すように見つめる恋人の視線に、高揚ではなく少しの恐怖を覚えているためだった。
「な、なんだよ」
「あなたは眼鏡も似合うな」
「は?」
村雨の発言に怪訝そうな顔をした獅子神は、改めて恋人の様子を観察する。するとどうやら、眼鏡姿の獅子神を見たい≠轤オいという考えに至った。
すぐに少しの恐怖は大変な興味に塗り変わる。
「なんだよ、見惚れちまったのか?」
「そうだ」
獅子神が揶揄うように言った言葉に、村雨は間髪入れずに肯定を返した。
先手を打ったはずの獅子神が唖然としている間に、村雨は獅子神の頤を取り、口づけようとして――
――カツ、
眼鏡同士が接触する。
その間の抜けた音に獅子神はぽかんとしてから「ふは」一転、吹き出した後ににんまりと笑った。
「いつもは上手に出来るのにな?」
「……」
村雨は獅子神の様子に唇を歪めながらも、煩わしそうに獅子神の眼鏡のテンプルに手をかけた。眼鏡姿をみることよりも口づけをしたいという欲求の方を優先することにしたらしい。
「待てよ」
しかし今度は獅子神の方が村雨のその行動を制した。
「外すならこっちだろ」
獅子神の指が繊細な動作で村雨の眼鏡を奪い取り、グラスコードで吊られる位置で離す。「なぁ、」そして流れるような仕草で村雨の髪を耳へかけ、そっと囁いた。
「上手なキスの仕方、教えてくれよ」
開いた唇を近づけ、
――せんせい。
その呼びかけはほとんど音にならず、舌先とともに口内へ滑り込んだ。