【おあずけ期間終了のお知らせ】


パソコンの液晶画面に向けていた視線を、ちらりと村雨に向けた。
視線を向けられたことに気付いているはずだが、村雨は大人しく持ち込んだ医療雑誌を読み進めている。
今日は村雨のオフ日だったためオレの家で二人でくつろいでいたのだが、投資先の現状について急ぎで確認したい内容ができたので一度書斎で少し仕事をすることになった。
その旨を村雨に伝えたところ、普段はリビングで待つはずの男がわざわざオレにくっついてきたため今に至る、というわけである。
壁際に置いた椅子――隣室から持ってきてやった――に腰かけ、姿勢正しく雑誌を読む男。足は揃えていて、何だかその様が可愛らしい。
パソコンの画面に視線を戻す。
忙しなく収集した情報を確認しながらも、頭の片隅では数日考え続けていることをまた考え始めてしまう。

(村雨に好きって言われたことねぇんだよな……)

考え続けているのは、村雨からオレに好意を伝えてきたことがないということについてだ。
先にそういう意味≠ナ好意を持ったのはオレの方だったと思う。――だったと思う、というのは無自覚だった期間が長いからだ。そして自覚したタイミングで即座に告白した。
『あー! そうだよ、好きだよ! クソッ』
思い出してみると、告白したと言うより自白させられたと言った方が正しいだろう。
それに対する村雨の返答は、
『フフ、悪態をつきながら告白するとは』
――返答は…
『あなた、存外器用なのだな』
――……。
そう、返答はなかったのだ。
よくよく思い出してみれば、オレも付き合って欲しいだとか言っていなかったので返答のしようがないと言えばそれもそう。
とは言え、だ。あの告白――正しくは自白――から二人で過ごす時間はぐんと増え、こうして具体的な予定がなくても共に過ごすようになって暫く経つ。一言くらい好意らしきものが返ってきたっていいのではないか。
零れそうになる溜息を抑えながら、再び行儀良く座る村雨に視線を向けた。無表情の横顔を眺めて考える。
(そもそも付き合ってないとかじゃないだろうな?)
明確に言葉にしていないのだし、有り得る、か?
「人を待たせておいて、集中できんのか」
「……っ、わーってますって…」
こちらを一瞥もせずに投げ掛けられた言葉にギクリとして、思わず大きな声が飛び出るところだった。すんでのところで飲み込んで、視線を再び液晶画面に戻す。
(……前と比べると明らかに二人で過ごす時間は増えたし、ヤることもヤってるし……村雨はまあ、付き合ってない相手とそういうことをするような感じじゃないだろ。多分)
必要な情報の確認と急ぎの対応は粗方終えたが、念のため追加の情報収集をするべく調査会社へ依頼メールを作成する。難しい内容ではないため、どうしても思考は再び目の前の男に関することへ流れていく。
早く終わらせろと急かされたが、多少リソースを割く分には問題ないだろう。仕事以外の考え事をしていることはすでにバレているだろうし、先ほどまでは何の指摘もなかったことから、作業に影響しない程度なら容赦されているということだ。だとするならば、オレとしてはこの仕事を終える頃にこの悩みも解消して、気兼ねなく恋人同士の時間を過ごしたい。
そうと決まればグダグダ脈略なく悩んでいる場合ではない。問題解決へ向けて順序だててアプローチしていくべきだ。
解決するには問題を細分化するのが一番の近道だろう。
まず、オレは村雨から好意の言葉が欲しいと思っているが、それは本当に言葉を貰えば♂決するのか?
これは深く考えずとも分かる。否だ。
そもそも、だ。
村雨がオレに好きだ≠ニ言ったとして、オレは多分その言葉を真に受けないだろう。
オレが好意を告げた時点では村雨の気持ちはこちらに向いていないように見えたし、それは今もそう変わらない。
そんな状況で好意を告げられたって、むしろその度に自分の気持ちと村雨の気持ちの大きさを比較して勝手にへこむ気さえする。
だから、オレは村雨から好意の言葉が欲しいと思っているが言葉を貰ったとしても♂決しない。

では何故、村雨から好意の言葉が欲しい≠ニ思ったのか。

よく考えれば妙な話だ。基本的にはオレは他人の言葉を信用しないのだから。
勿論、他人からの全ての言葉を疑っているというわけではなく、他人の言葉を行動の主軸としていないだけ。いつだってオレの行動の主軸はオレの気持ちだ。
オレがしたいと思えばするし、したくないと思えばしない。他人の言葉を判断の指標にはしないし、原拠ともしない。頼るなら言葉よりもっと具体的なものに頼る。
村雨との関係についてもそうだ。オレが付き合っていたいから付き合っているのだ。
少しの好意もなければ、もしくは多少でも嫌悪があれば、村雨はオレとは付き合わなかっただろう。
そうじゃないなら、別にいいのだ。オレが村雨と付き合っていたいのだから。同じだけの気持ちが返ってくるだなんて期待したこともない。村雨の気持ちがどうあろうと関係ない。
だから、オレにとって村雨からの言葉は重要ではない。――はずだった。
それがどう転んで、村雨から好意の言葉が欲しい≠ニ思ったのか。今この瞬間まで疑問にすら思わなかった。

「仕事は終わったんだろう」
「っ、」
メールを送り終えた瞬間、間近で聞こえた声に息を飲む。直ぐ脇に立った村雨がオレを見下ろしていた。いつの間に。直前まで村雨が座っていた椅子の方を見ると、座面に雑誌が置き去りにされている。
掴みかけた何かを追い終わってから声をかける予定が、仕事の終わりを正確に把握されていたために追えなくなってしまった。こうなってはまた改めて思考するしかないだろう。長く悩むのは柄ではないが仕方ない。
椅子に腰かけたまま村雨側へ少し回転し、体ごと向き合った。座面は少し高めに調整しているが、隣に立たれるとそこそこ見上げる形になる。思っていたより近い距離に再び驚きつつ、なんでもないように口を開いた。
「ちょうど今な」
「仕事でない方はまだのようだが」
「は」
バレていることはわかっていたが指摘を受けると思っていなかったために、間の抜けた反応を返してしまった。
普段ならば呆れ顔でマヌケとでも言われる場面だが――
「二人でやった方が早く終わるだろう」
「え?」
呆れ顔どころか微かに笑みさえ浮かべている。
呆気にとられている間に村雨の指先がオレの前髪を払い、額を擽った。
「獅子神」
村雨の声に急に色気が滲んだ。気がする。こういう声を聴くのはいつだって寝台の上なものだから、どうしたってその時の様子が脳裏にちらついてしまう。
触発されてじわりと体に熱が広がっていく。
「おま、妙な声出すな…ッ」
「妙な声、とは?」
「……っ」
村雨の両手がそっとオレの両頬を包んだ。こいつの壊れ物を扱うような動作はいつもこちらを恥ずかしい気持ちにさせる。だってそういう時の村雨の目は、際限なく甘ったるい。
「ししがみ」
どろどろに蕩けた呼び掛けは、逸らしていた視線を向けるようにと言外に含んでいた。
強制されてなどいないのに、逆らえない。
「よく見て思い出すといい」
目を合わせてみれば案の定、村雨は甘ったるい目をしている。これ以上ないくらいに。
「あなたはもう、知っている=v
――知っている=H なにを?
熱に浮かされて上手く思考が働かない。ぼうっと見つめたままでいた先の目が、微かに弓なりに細まった。
熱っぽいその瞳がそんな風に細められる場面を、知っている。
「フフ」
弧を描いた薄い唇が、オレの額、目尻、鼻筋へと控えめな口付けを落としていく。性感帯でもなんでもないのに、体の内でぐるぐると熱が増していく。いつもそうだ、こいつに触られるとどこもかしこも熱くなってしまう。
村雨の親指がオレの下唇をきゅう、と撫でた。唇を開けという合図だ。脳みそがぐちゃぐちゃに乱されて、何も考えられなくなって、村雨のシたいことを欠片も読める状態ではなくなって――そんな状態の時にいつも寝台の上で送られる、キスの合図。
ギシ、と村雨が膝を座面に乗せる軋んだ音がして、一層体が近づいた。触れていないはずの部分にも、触れているかのようにじんわりと熱が侵食する。
「ししがみ」
ほとんど吐息の様な声はお互いの唇に飲み込まれた。
何度も啄むようなキスをされるうちに、ここがベッドの上だと錯覚しそうになる。
「ししがみ」
息を乱すようなキスじゃない。でもきっと、酸素以外の何かを奪い合っている。だってこんなにも胸が苦しい。
そうだ、いつだってこうして簡単に翻弄されてしまう。悔しさはあるけれど、それ以上にどうしようもない愛おしさでぎゅうっと胸が絞られる。
そして滲んだ視界の向こう、甘ったるく眦を下げた村雨の――そう、いつもその薄い唇が何かを言いかけるのだ。
「あ、」
そうだ、オレの中にはない。言葉が欲しいなんてそんな発想、そんな欲は持っていない。
オレだって具体的な好意を口にしたのは告白のときの一度だけだ。自分が投げかけていない言葉なのだから不足という感覚もない。つまり、
「誘導…」
「やっと気付いたかマヌケ」
「は、」
先程までの柔らかなムードはどこへいったのか。噛みつく様なキスに疑問も呼吸もまとめて飲み込まれ、荒々しく口内を蹂躙される。
やめさせようと伸ばした手は易々と掴まり、指先同士を絡められた。大事な仕事道具を傷つけるわけにもいかず、止めるどころか力を込めないよう気を付ける方に注力する。
やりたい放題やりつくされ、ようやく唇が離れる頃には息も絶え絶えだった。抗議の視線を向けるも、村雨は意に介しもせず行儀悪くぺろりと唇を一舐めしてから口を開いた。
「あなたがいつまで経っても欲しがらんので、しびれを切らすところだった」
いや、しびれを切らしてからのコレじゃねえの? と言いたかったが、ぜえはあと呼吸するので精一杯だ。
肩で息をするオレのことなど気にせず、一方的に蹂躙してきた男の方は意気揚々とタネ明かしを始めている。聞いちゃいないのにまあ楽しそうなこと。
だが細かいことはいい。俺が確認すべきはひとつだけだ。
呼吸を整えてから口を開く。「お前さ」こんなの、都合が良過ぎて現実味が無さ過ぎるだろう。
「オレのこと、」
「好きだ。確かめずとも現実なので安心するといい」
ああ多分、嘘はない。本当にこの男はオレのことが好きなのだ。
絡められたままの指先に口付けられる。その振る舞いは大切なものを扱うときのそれだ。
わざとらしい程のそれに今まではむず痒さや気恥ずかしさばかりを感じていたが、好意故の自然な振る舞いだと知ってしまえば喜びが勝ってしまう。
だってこの男がこんな風に触れるのは、オレだけなのだから。
「いつから…?」
「あなたの恋が始まるより早く」
きっぱりと言い切った言葉に迷いは全くない。そんなにはっきりと好意を持ってくれていたのなら、もっと早く、なんだったらオレが告白した時に教えてくれたって。
ああでも、素直に受け取れやしなかったに違いない。下手をすれば疑ってさえいたかも。まあつまりは今回もお医者様の診断が正しかったワケだ。
指先が解かれ、先ほどしたように再びオレの前髪を払い、額を擽った。両目がしっかり合う。村雨の双眸が熱っぽく見えるのは瞳の色のせいだけではないはずだ。
獅子神、と落とされた声は愛情だけが乗せられていて、他には何も読み取れない。疑う余地がない。
「もっと欲しがり、期待しろ。私は、」
オレはこの男の愛情を疑わなくていいし、求めてもいいし、期待したっていい。だってこの男は、

「それに応えて余りあるだけの愛情を持っている」
オレのことを愛しているのだから。