【嫉妬する先生のはなし】
「あなた、約束を破ったな」
オレの自宅玄関にて、十日ぶりに会った恋人――村雨の第一声である。おまけに恨めしげな視線つき。あえてそういう表情を作っているのだろう。
しかし困ったことに思い当たることが全くない。
「約束?」
仕方なく素直に思い出せないと伝えてみる。村雨は一層眉根を寄せ、不機嫌そうな顔を作って見せた。が、そんな顔をされたって思い出せないものは出せないのだ。
オレが思い出せないことなどとっくに分かっているくせに、への字に結ばれた口を固く閉ざして静かに靴を脱ぐ。そのまま勝手知ったるといった様子で洗面所へ歩を進め始めた。不機嫌を隠しもせずに――むしろアピールして――いる恋人にかけられる言葉はないので大人しく後を追う。
下手を打ってさらに機嫌を降下させることだけは避けねばなるまい。久しぶりに会えるのを待ちわびていたので、不要な喧嘩などして台無しにしたくない。
洗面台の前で村雨の上着を脱がせてやり、それを片手に静かに手を洗う様子を観察する。洗い終えた手を拭う男が鏡越しに目を合わせてきた。
このままでは埒が明かないことは十分わかっているはずだから、やむなく伝えることにしたのだろう。静かに薄い唇が開かれる。「あなた」明瞭な声、じっとりとした目つき、きつく寄せられた眉、下がったままの口角。全てが言葉より先にオレを非難している。
「一人で楽しんだろう」
「……は?」
――楽しむ? 何を?
予想もしていなかったワードに一瞬思考が停止する。そして意味を理解すると今度は腹が立った。
こちら数日、本業の忙しさ故にいつも以上に連絡が取れなかったこの男と今日この日に会える事こそを楽しみにしていたのだ。
会えない期間が長くなる程この男を思い出すことが多くなり、普段より思考を奪われてさえいた。そんな状況で一体何を楽しむと――
「あ」
一気に体中の血液が顔に集まるのを感じる。鏡越しに村雨に向けていた視線を、思わず直接本人の横顔に向けた。
「はあっ?」
何の約束を破ってしまったのかを理解した。何故バレたのかはまったく分からないが。
「もう、そんなんオメー、仕方ねーだろうが!」
十日間丸々顔を合わせてさえなかったために日が経つにつれて脳裏に恋人がちらついた。当然恋しいという健全な感情が主だったが、別の欲が湧き上がるのも当然のことだろう。
しばらく体を重ねないことなどザラにあるが、会うことさえ出来ず何のスキンシップもなかったのは初めてだったのだ。
相変わらず鏡の方を向いている男の横顔は、表情も相変わらず不機嫌顔のままである。
「私はあなたにマスターベーションをするなと言い、あなたは了承した。それを反故にすることの何が仕方ない?」
「そりゃ、健全な生理現象ってやつなんだから、不可抗力…ってやつで……! つうか、オイシャサマなんだからオレよりよっぽど詳しいだろーが!」
「獅子神」
約束の内容が内容であるのに、揶揄っているような雰囲気は全くない。つまり本気で憤っているのだ、この男は。
正直、こんなことで? という気持ちではある。そもそも自慰をするなと言われたのだって初めて体を重ねたすぐ後にさらりと言われた言葉だったから、変わったピロートークだなとしか思っていなかったし、その後話題に上ることもなかった。
「わ、るかった…約束、破っちまってよ…」
けれど村雨にとっては重要だったのだろう。ならばそれを軽視して忘却し、約束を破ってしまったオレが悪い。
――しかし、理由は知りたいところだ。
恋人の言葉を軽んじてしまったことについては本当に後悔しているし心から反省している。けれどそれとは別に約束するに至った動機、この男の気持ちが知りたい。
その疑問を舌に乗せるより早く、村雨が少し頬を緩めた。表出させていた不機嫌さが霧散する。
「あなたがあの約束を本気にしていないことはわかっていた。だからもういい」
これはわざとだとすぐにわかった。今までの不機嫌さは大袈裟に表現しただけで、実際にはそんなに気にしていないという体の。
洗面所を出るためにくるりと振り返った村雨の目の前に立ちはだかる。
「よくはねーだろ」
この男は嘘がとても上手いが、オレだってもうそうそう騙されやしない。一番近くで観察し続けているのだから。
真正面で観察を始める。村雨が何でもないような顔をしているせいで、得られる情報は少ない。
けれどその少ない情報とこれまでの言動で十分だ。不機嫌を隠しもせずぶつけてくる程に不快に感じたくせに、何でもないように装う。――それは追及されたくないから。
村雨はオレの自慰を禁じた理由を言いたくないのだ。そしてその理由はオレが納得できるようなものではないのだろう。
「こうなることは明白だったのに、下手を打ったな」
村雨は、オレに読まれたこともオレが引かないことも悟ったらしい。
「けれど、どうしても見過ごせなかった」
深い溜息と共に零された言葉に、内心驚いてしまう。だって今の発言は、感情のコントロールが出来なかったと言ったに等しいのだから。
村雨は一拍置いてから諦めたように再び口を開く。それにあわせて、先程隠されたはずの感情もともに零れ落ちる。
「あなたの、手がいけない」
常に明瞭な声色を発する男が、言いたくなさげにぼそぼそと言う様はなんだか可愛らしくもあった。
今はもう、不機嫌というよりも拗ねている。
「手?」
村雨の上着を引っかけたままの腕を持ち上げ、両手のひらを観察してみる。言われた言葉を理解するために、それはもう注意深くだ。
そしてそれ以上に視界の外、オレの反応を村雨が綿密に観察しているのを認識する。しかしいつも通りの己の手に違いなく、特段かわった点を見つけられなかった。
「手がなんだよ?」
両手に落としたままだった視線を上げ、仕方なく素直に問うてみる。村雨はこちらを観察するのをやめ、わざとらしく大きな溜息をついてみせた。
「だから言いたくなかった」
唇を少し尖らせて、渋々といった様子でオレの両手を掬うように掴む。洗ったばかりだからだろう、手の甲に触れた村雨の体温は冷たい。
「あなたが気にしていないと知っていたから」
村雨の左手の親指が、オレの右手に残る傷跡を撫でさする。そこまでされてようやくオレにも恋人の言わんとしていることがわかった。
「余計なことを言って思い出させる方が嫌だったのに」
よくよく思い出せば、スキンシップの時にはオレの右手はいつもお互いの視界に入らないようにされている気がする。ベッドの上では、特に。
察しの悪さに腹を立てたのか鈍感さに苛立ったのかあるいはその両方か。傷跡に僅かに爪を立てられて思考が中断される。
「わかっている。あなたのこの傷にはあの男のことなど刻まれていない、刻まれているのはあなた自身の決意のようなものだけだと理解している」
そうだ、そんなことを気にする必要はないのだ。この傷を視界に入れたところでなんの意味もない、特定の誰かを思い起こすこともない。
村雨は、「それでも」相変わらずの不満顔で吐き出した。憎々しげと言ってもいい。
「その決意の場にいたのはあの男だ」
こちらをじっと見つめる瞳には燃えるような悋気が宿っている。そしてもっとずっと奥には、ほんの少しだけ不安が揺れている。
ああ、こういうところが
――たまらなく可愛い男だな、と思うのだ。
不貞腐れた恋人の頬を包んだ。視線がぶつかる。
「んな心配しなくたってよ、」
思った言葉は口に出すより早く察知され、村雨の瞳から悋気も不安も解けて消えていく。
「お前で頭がいっぱいだっての」
何に嫉妬しているのかを知られることにすら嫉妬する悋気深いこの男が、いつだって思考を占領しているのだ。他の人間を住まわせる場所なんて残っていやしない。
「……マヌケ」
両手にほんの少し、持ち上げられる頬の気配がした。