【除夜のはなし】


深夜と言うにはまだ少し早いが、普段ならばすっかり人気がないはずの住宅街。けれど大晦日の今日ばかりは煌々とした灯りと楽しげな話し声がどこからともなく漏れていて、常より賑やかだ。
その賑やかさに紛れて、二人分の足音が響く。
「すげぇ混んでたな」
白い吐息と共に零した言葉は、投げ掛けではなく感想だった。無意識に漏れたもの。
零してすぐ、その無意識の一言に含んでしまったものに気付き、息を飲んだ。
「この辺りは蕎麦屋がそう多くないからな」
けれど話題を転換するよりも早く、並んで歩いていた恋人――村雨が応える。
その返答は触れて欲しくなかった内容を避けたものだったが、気が付いていながらあえて触れていないだけなのは明白だった。この男に限って気が付いていないはずがないのだ。
医師としての村雨礼二は患者の都合などお構いなしにさっさと腹を暴いてしまう男だが、恋人としての村雨礼二は交際相手の心にメスを入れるような真似は――滅多に――しない男である。
つまり、そのまま触れずに終えるのか、それとも打ち明けて話を続けるのか。その選択はこちらに委ねられていた。
言うか言うまいか。考えずとも、答えは決まっている。
「そうだけどよ、それにしたってあんなに食いに来るやついると思ってなかったから」
当然、言ってしまった方が良い。
今後も同じようなことが続くことは分かりきっているし、どうせバレているのだ。一々息を詰めるよりも一息に吐き出してしまった方が気が楽に違いない。
何より、悪いようにはされない、という信頼もある。

――『オメーは年越しって、どうしてる?』

数時間前、仕事を終えて家にやってきた村雨へ投げ掛けた問いだ。
オレは自分が極普通の家庭で育っていないことを知っていたし、極普通の家庭でどのように年越しをするのかを知らない。だったら普通の年越し≠ニやらは知っている相手に聞けばいいだけの話だと考えた。
どうやら各家庭によって独自ルールが存在するらしいことも知っていたので、普通の≠ナはなく村雨の#N越しを聞くことが出来たら尚良し、くらいの気持ちで。
村雨は少しだけ考え、『実家に居た頃は、』こう言った。

――『年越し蕎麦は食べていたな』

そういうわけで今に至る。つまりは誰かと年越しをしたことがないことはとうに知られているだろうし、今後他の年中行事でも同じような展開になることは目に見えていた。
「オレさ、」
外気に晒されかさついていた唇を一度舐め、続ける。
「年越し蕎麦食ったの、初めてなんだ」
今更恥じる必要などないのに、勝手に頬は熱くなった。見られてやしないかと村雨の様子をちらりと観察してみるが、赤い目はこちらを見てはいない。話しやすいようにだろう。
小さな気遣いに、今度は胸が別の意味で熱くなる。
「オメーと一緒だと、初めてのことばっかで飽きねーよ」
冗談めかして発したそれは、紛れもない本心である。
これまでの人生で初めて≠ニいうワードを使うのは何かに利用する時だけで、それ以外ではむしろ隠してさえいた。
つまりこの告白は、オレにとって村雨は弱みを見せていい相手である≠ニいうことの暴露に他ならない。
「私の家では、」
村雨は前を向いたまま、静かに言う。
「元日は初詣に行く」
ほんの少し嬉しそうに零されたその言葉に、先とは真逆の気まずさに再び息を飲んでしまった。一拍遅れて、何でもない風に返す。
「そっか。じゃあ行かねぇとな」
一斉に無数の視線≠ェこちらに向けられる。
応答に一拍要したその意味を正確に読み取られてしまったことを悟った。読み取られてしまったそれに言及させまいと再びこちらが口を切るよりも早く、村雨は言い及ぶ。
「飽きるのか? 私と行くのは初めてなのに」
わかっているくせに。分かりやすくバツが悪いといった顔をしてみせる。
「はいはい、飽きねぇですよ」
適当に発した言葉に、村雨は何も返さない。住宅街に二人分の足音だけが響く。
しかし隣の男、口は開かないが目≠ヘ開きっぱなしだ。
「…視線がうるさいんだけど」
突き刺さる視線≠ノ耐えられなくなり、仕方なく控えめに抗議する。「そちらを見てはいないが?」わかっているくせに。先程と同じ言葉が舌の上に乗りそうになったがもう一度飲み込み直し、代わりに溜め息とともに過去を吐き出すことにする。
「十代の頃、恋人と行ったんだよ」
ぼそぼそと自白したものの、なんとなく気まずい。
村雨の様子を窺うと、赤い目もちょうど合わせてこちらに向けられた。薄い唇がぽかりと開く。
「で?」
「で? 何だよ、気になんの?」
「当然だ。恋人の昔話に興味がないはずがない」
「…ふぅん」
正直なところ、意外である。
様子を見るに嫉妬ではないのだろうと思う。つまり純粋にオレの過去に興味があるのだ。どんなに化物じみていようが、過去の詳細なエピソードまでは知りようがない。だから、素直に訪ねているのだ。
「ふぅーん」
思わず口の端が上がってしまう。普段ならばマヌケ面だと即座に罵られる場面だが、村雨は多少眉根を寄せた程度で大人しく傾聴の姿勢を保っていた。可愛い男である。
「十代の頃バイト先で知り合った子で、」
村雨は再び視線を前に向け、静かにこちらの声へと耳を傾け始めた。
「そのバイト先近くの神社の初詣に行ったんだよ」
「出店もでるとこで、結構派手にやっててさ」
「すげぇ寒かったんだけど、こう、ちっちぇ紙コップの甘酒貰って…」
「寒い寒い言いながらチビチビ飲んでよ」
脳裏に焼き付いていた鮮やかな情景に、唇は不思議なほど滑らかに動いた。長い時間ではなかったし、そもそも促されて話したのだが、それにしたって話し過ぎたかもしれない。そう思い、再び恋人の様子を窺う。話し終えた今となってはもう遅いけれど。
相変わらず村雨の感情に乱れはなさそうで、内心ほっとする。けれど隠すのが上手い男だ、本心はどうだかわからない。話し終えたのだし、さっさと切り上げてしまうのが正解だろう。
「楽しかったのか?」
話の切り上げ方に迷った一瞬、するりと入ってきた声にどきりと胸が波打った。
嘘をついても仕方ない。返答など、口に出す前にわかりきっているに違いないのだ。
「……楽しかった」
機嫌を損ねられてもおかしくない一言であったが、事実なので仕方がない。
だって、楽しかったのをよく覚えている。
けれど、あの初詣での情景や感情は覚えている一方で、恋人の様子については正直あまり思い出せない。楽しそうではあったと思うが、その程度だ。
「その頃同年代の奴らってまだ学生ばっかでよ」
恋人の様子は思い出せないのに、こんなにもあの神社が鮮明な理由。それは多分きっと――
「今思えば、普通に皆と同じこと≠ェ出来てる感じが楽しかったのかもな」
多分きっと、そういうことなのだ。
周りはまだ学生として生きている人間が多い中、自分は早々に大人に交じり、この身一つで生きていく選択をした。
その選択を後悔したことは一度だってないが、同年代の環境を羨んだことがない訳でもなかった。
あの日のあの神社では、オレは世間一般の子供として振る舞うことが許され、周りの大人もそういう目でオレを見ていた。そして、ただそれだけのことにオレははしゃいでいたのだ。
「そうか」
「……妬かねぇんだな」
当時のオレの気持ちや様子まで手に取るように読み取られているだろう。過去の恋人との思い出話などという、現恋人からすると微妙過ぎる話題なのに村雨からの嫉妬は微塵も感じない。それどころか喜んでさえいるようだった。
妬いていないことなど始めから分かっていたし、だからこそ安心して話すことが出来たのに、全く嫉妬心を持たれていないことに僅かに落胆してしまう。
複雑な感情に内心モヤモヤとしていると、隣から笑い声が聞こえた。なんだよ、そう言うより先に、並んで歩いていた距離を一歩分詰められて言葉に詰まる。
「あなたが楽しいことを思い出し、嬉しい気持ちになることが嬉しい」
小さな声で囁かれた台詞に思わず振り向くと、思った以上に近い距離に端正な顔があって上手く口が回らない。普段は鋭い目付きのくせ、毎度こんなときばかり目尻を下げるのはずるいのではないか。
「それに、今のあなたの幸せは私だからな」
「は、」
はあ? そう照れ隠しの叫びが吐き出されるより早く、冷たいものが片手首を伝った。もう半歩、距離が詰められる。伝っているのは村雨の冷えた掌だ。足を止めそうになるが、隣の男がそれを許さない。
ポケットの中に入れていた指先に、村雨の細い指が絡む。
ぴたりと寄り添い交差した腕で、指先を見ずとも恋人繋ぎであることが一目でわかる状態だ。
ここ、住宅街だぞ。それもオレんちの近所。思った直後、一層強く手を握られる。どうせ誰も見てやしない。それよりも自分を気にしろと、そういう意思表示。
村雨からのそういった意思表示は珍しくもないが、今はどこか引っ掛かりを覚える。

「過去は過去だ。今のあなたが選ぶのは、私以外に有り得ない」
村雨はグラスコードの音が微かに聞こえるほどに顔を寄せてきた。「なにより」囁く声色は色をたっぷりと孕んで擦れている。
「これからの初めて≠ヘ、ほとんど私のものだ」
その熱烈な言葉に、引っ掛かりは確信にかわった。
村雨は嫉妬していたのだ。それも、強烈に。
嫉妬心を隠したのはオレから話を聞き出すため。話を聞き出したのはその後の処置のため。つまりこの男、

――過去さえも塗り替えてしまおうとしたのだ。

いや、塗り替えられてしまった。もう既に。
これから先、初めての初詣を思い出すときには必ず今この瞬間の村雨を思い出すに違いない。
その上、今後体験する初詣には全てこの男がいる予定なのだ。
全て村雨が望み、仕組んだこと。飄々としているように見えてその実、オレのことが好きで堪らないのだと、こうしてことあるごとにしつこく主張する。そしてそれを知る度に何度だって絆されてしまう。
歪みそうになる口元を、慌てて拘束されていない方の手で隠した。
「妬いていないとは言っていない」
「ソウデスネ」
赤らんだ顔など見ずとも、繋いだ掌の温度変化で気持ちはバレバレだろう。村雨は満足そうな笑い声を零した。
オレの方が嫉妬されている側だったはずなのに。いつだって一枚上手の恋人に、どうやって仕返したらいいのだろうか。そんなことを考えた時、特徴的な鐘の音が鏗鏗と鳴り響いた。
「除夜の鐘か」
残響が消える頃、再び鳴り響く鐘の音。恐らく、明日行くことになる神社のものだ。
煩くはないけれど、家の中で何となく聞いていた時よりもずっと存在感のある音量に、そういえば、と気付く。
「初めてだ」
村雨の目がこちらに向いた。その顔はなんとなくきょとんとした顔をしていて、可愛らしい。
「除夜の鐘を外で聴くのも、誰かと一緒に聴くのも」
繋いだ手を強く握り直し、薄い肩に頬を寄せた。
「オメーが初めてだよ」
「フフ、それは良かった」