【抱かれるつもりだった先生のはなし】
「は?」
村雨の口から、地を這うように低い声が零れ落ちた。常以上に鋭い眼光は怒りのため。
獅子神宅の寝室、寝台の端。獅子神と村雨は揃いのバスローブを纏い、膝が付きそうな距離に並んで座っていた。
獅子神は仰け反りそうになる体を何とか抑え、村雨を怒らせてしまった原因の発言をもう一度繰り返す。
「だから、オレが抱かれる方をやってやるって」
「何故?」
獅子神が言い終わるより早く、村雨は疑問を被せた。「何故って」村雨の勢いに押され、獅子神は上手く言葉を返せない。間を繋ぐために発した復唱に、再び村雨が言葉を被せた。
「私を抱くつもりで準備してきたあなたが、土壇場になってポジションを替える。それは何故かと聞いている」
獅子神は質問には返さず目を伏せる。村雨の推察通り、獅子神は当初トップ側を担うつもりでいたし、その準備――主に精神面と知識面――を進めていた。それらを全てひっくり返し、ボトム側を担うことにした理由。その問いに答えたくなかったからだった。
「そもそも、だ」
村雨は指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、黙ったままの獅子神に続けて投げ掛ける。
「やってやる? その言い方も気に入らん。代わって欲しいなど一言も言っていないのに」
「…オレだって抱く側やりたいなんて、一言も言ってねぇだろーが」
「あなたは私を抱くつもりで準備してきただろう」
村雨は獅子神の反論に不機嫌さを一層濃くしていった。
外観は恋人同士が初夜を迎えようという様子であったが、その空気には一匙も甘さは溶けていない。空気だけならば寝室よりも取調室と表現された方が適切なほど。
「それともまさか、誤診を訴えているのか?」
村雨は言外に、これから根拠を詳らかにしてやろうか、というある種の脅しをかける。
「……間違っちゃねぇけど、」
獅子神は伏せているだけだった視線をさらに逃がし、村雨を視界から完全に外した。
「ここ数日で考えが変わったんだよ」
「変わった?」
獅子神の唇が強く引き結ばれる。村雨の問診は患者側の否応に関わらず、医師である彼の納得を得られない限り終わらない。それを承知しているからこその沈黙である。
「獅子神」
刺々しい呼びかけが獅子神を急かした。
獅子神はのろのろと顔を上げ、村雨の顔を窺う。
「……わかんねーの?」
村雨は答えず、鋭い視線でもって続きを促した。
獅子神は引き結んでいた唇を緩めてまた結ぶのを数度繰り返してから、重い口を開く。
「お前、体かたいだろ」
「……は?」
零された言葉のあまりの突飛さに、村雨は唖然とした。寄せられていた眉根の力も抜け、顔には僅かに戸惑いの色を浮かべている。
獅子神は強張りの解れた恋人の痩身に触れ、そっと押し倒した。村雨の抵抗はなく、流されるままにその身はあっさりとベッドに転がる。
「ちょい失礼」
ベッドの端から投げ出されていた片足を、獅子神の太い腕が掬い上げた。膝裏を掴まれ、自身の膝が立てられたところで村雨の眉が跳ねる。
「おい、獅子――」
突然の不躾な接触に抗議しようとした呼び掛けは、獅子神が村雨の膝を開こうとしたところで、
「痛ァッ!」
――悲鳴にかわった。
「おっと」
膝を閉じて勢いよく起き上がる村雨を避け、獅子神は降参のポーズで元の位置に座り直す。
「何をする、マヌケ!」
「ほら、なぁ」
「今のはあなたのやり方が悪いだろうが!」
村雨は先程までの冷ややかな怒りではなく、痛みのせいか感情的な怒りを表出させていた。
そんな村雨の様子を、毛を逆立てて威嚇する猫のようだと思いながら、獅子神は肩を竦めて見せる。
「いや、オメーこの前もそんなんだっただろ?」
獅子神が口にしたこの前≠ニは、真経津経由で知り合ったギャンブラー五人の集まりでのことである。
その日は真経津が持ち込んだパーティーゲーム――四色のサークルマットの上でスピナーの指示に従い、手足を動かしていく例のアレである――で遊ぶことになったのだが、村雨の体のかたさは尋常ではなく、早々にリタイアしたのであった。
しかしリタイアまでに響いたマヌケ!≠ニいう悲痛な非難は片手では足りず。その様を見て獅子神は、村雨にボトム側は負担が大きいのでは? という疑問を抱くに至ったのだ。
「なるほど? あなたの決心が再び揺らいでいたのは、あれがきっかけだったわけだ」
「やっぱり察してたんじゃねーかよ」
痛みに潤んだ瞳にじっとりと睨まれるも、獅子神は静かに呆れるばかりであった。呆れているのは、あれだけ痛がっている姿を見せておきながら、当の本人の印象には全く残っていない点についてである。
「で?」
「で、って、そういうことだよ」
「マヌケ」
村雨に続きを促される意味が分からず、獅子神は思ったままを口にしたものの、それもすぐに村雨の悪態でもって打ち返された。そして村雨は続ける。
「まだ言っていないことがあるだろう」
獅子神は跳ねそうになる体を抑えることは出来たが心臓はそう出来ず、それが村雨に図星≠ナあることを教えてしまった。
「舐めているのか? 私の愛情を」
バレてしまったにも関わらず口を噤んだままの獅子神に、村雨は追撃する。
「私はあなたを抱きたかった。あなたが欲しくて堪らなかったから」
「しかし、それはあなたも同じだっただろう」
「だから譲ることにした。だが、妥協ではない」
「あなたを欲しい気持ちと同じくらい、あなたに欲しがられたかったからだ」
「だから私の負担を考え、あなたが私を抱きたいという欲を抑える必要はない」
「そう決めてから私はこの日のために準備してきた。尻の、だ」
「それが今更なんだ? 納得いく説明を――」
「だーっ! もう、わかった! わかったから!」
とうとうと詰られ続けることに耐え兼ね、獅子神は悲鳴を上げた。
「獅子神」
「………」
獅子神は村雨から顔を背けたまま、ぶすりと唇を引き結んでいる。不機嫌で上塗りしているが、その顔の下には既に諦めが浮かんでいるのを獅子神本人も、対する村雨もわかっていた。
迷いのきっかけの話≠することで最終決定の決め手≠隠そうとした獅子神の作戦はとうにバレており、それを白状するまで村雨は引かないこと、沈黙を守ることにもはや意味がないこともお互いに分かっている状況。
しかし獅子神は僅かに唇を開いては、また引き結ぶのを繰り返していた。単に、自分の内心を口にしたくないが故である。
「獅子神」
村雨は獅子神の額にかかる髪を耳にかけてやりながら、静かに呼び掛けた。
「私は全て話したぞ」
その声色には先程までの責め立てるような冷たさはなく、むしろ、獅子神に愛を囁く時のような熱がたっぷりと込められている。
獅子神は引き結んでいた唇を開いて大きく息を吸い、吐いた。
「……だから、わかってるって」
そう言ってから後頭部を乱暴に掻き、もう一度深く呼吸をしてから自身の唇を舐める。「オレはあんま、要領が良くねーからよ」獅子神は肘を膝の上へ置き背を丸め、掌を組み直した。
「お前の体が痛むのを気にして抱くより、」
平素の声よりずっと小さく発せられたそれに、村雨は一層耳をそばだてる。
恥ずかしさ故に潤んだ獅子神の目は、村雨からよく見えた。事前に村雨が己の視線を遮る位置にあった獅子神の頭髪を、彼の耳にかけてやっていたからだ。
「いっそ抱かれる側だったら、ちゃんとオメーに集中できるだろ」
「あとは?」
獅子神が言葉を切る意図で吐いた息継ぎに、村雨の言葉が被さる。
組んだ指に額を当てようと獅子神の頭が下げられるより早く、村雨の手が獅子神の肩を掴んだ。
「ししがみ、」
逃げられないならば隠れるしかない。そういった本能的な動作だったが、本能であるからこそ村雨には通用しない。
「早く言え」
見る見る内に獅子神の頬は赤く染まっていく。それと比例するように、村雨の口元は緩んでいく。
獅子神は唇を一度噛み締め、それから一拍置いて、ゆっくりと口を開いた。
「――オレに興奮するお前が、見たい」
それはボトム側でなくとも見られる、などと村雨は口にしない。トップ側でしか見られない光景があるように、ボトム側でしか見られない光景がある。
そして何より、獅子神が双方を比べボトム側が良い≠ニ決めたのであれば村雨に唱えられる異論はなかった。
魅力的な二択に最後まで迷っていた村雨にとって、最終決定の決め手≠ヘ獅子神の希望≠セったのだから。
無数の目が自分にだけ向けられる様を想像し、それに怯えながらも期待している獅子神。その興奮を直接村雨に向かって口にする獅子神。
それらで村雨はすでに十分、満足していた。
「……だ、だから、オレは、」
しかし村雨が――珍しく――言葉に詰まっていることを、まだ足りないのだと勘違いした獅子神は告白を続ける。
「オレが突っ込ませてやっても良いって思うのはオメーだけだよッ!」
限界を突破した羞恥により、獅子神は乱暴に言い放った。
肩に乗せられたままだった村雨の手を払いのけ、逸らしていた顔を真っ直ぐ向けて。
その顔は発熱しているように首まで真っ赤に染まっており、瞳は涙が零れ落ちそうな程に潤んでいる。
呆気にとられている村雨に、獅子神は求められる以上に己が話し過ぎてしまったことを知った。
「……これでじゅーぶんだな?」
獅子神は自分の失態に眉根を寄せ、唇を尖らせる。
その様に込み上げる笑いを抑えることが出来ず声を出して笑い始めた村雨に、獅子神の羞恥は一層強まった。
獅子神が耐えきれず顔を再び逸らすより早く、彼の火照った首筋にするりと村雨の指が這う。びくりと獅子神の肩が跳ねた。そのまま細い指は頬まで滑り、獅子神の顔を包む。
村雨の目の前には整えられた清潔な寝具と、決意を固めた恋人。
「上出来だ」
村雨は意地悪く笑って、獅子神の唇に己の唇を寄せた。