【巣穴にて】
微睡の中、空調機器が空気を吐き出す音が妙に大きく聞こえ続ける。聞いている内に段々と意識が覚醒し、完全に目が覚めた。
ベッドに横たわったまま、サイドテーブルに置かれた時計を確認すると、眠ってからまだ2時間程といったところ。
そのままぼんやりと耳を澄ませ、空調機器の低い音に紛れる規則的な寝息を拾い上げる。
背面から聴こえるそれは、静かで緩やか。完全に深く寝入っているのだろう、多少身じろいだところで目覚めさせてしまうことはなさそうだ。
僅かに身をよじり、この寝所の主――獅子神の様子をうかがった。
寝所は遮光が徹底されているので外の明るさはほとんどわからない。僅かに照らすナイトライトの灯りだけが光源だ。
その唯一の光源に薄々と照らされる恋人の造形は、相も変わらず美しい。
彼がこちらを向いて眠っているおかげで普段であれば許されない程によくよく観察することが出来るが、見れば見るほどに整っている。澄んだ碧眼が見られないことだけが惜しい点だ。
起きている時の彼は、私の一言一行で素直に表情をかえよく笑う。
その様はどちらかと言えば可愛らしい≠ニ表現した方がしっくりくるが、今のように造形だけをとれば間違いなく美しい≠ニ表現するのが適切だろう。
だが、可愛らしい≠焉A美しい≠焉A獅子神敬一を見てそう感じる人間はいくらでもいる。
そう感じさせる光景を見る事が出来る人間がいくらでもいるからだ。
しかし、今私が見ている光景は誰一人として見たことがないもの。唯一私だけが見ることを許された獅子神敬一。
――ようやく。やっと。
私はこの、臆病な獣の寝床に入り込むことが出来たのだ。
獅子神の寝顔を眺め、己が抱く感情を推し量る。
ついに成し遂げた短期目標への達成感が一割。
私という厄介な人間に好かれ、その上捕まってしまった男への哀れみが一割。
残りの八割は全て、愛おしさで満たされている。
この獣を大切にしなければ。義務ではない。ただ、逃がさないために。
そこまで考えて、獅子神に向けていた視線をまだ見慣れぬ天井へと移した。
寝る前に汗をかいたせいか、喉が渇く。
夜明けはまだ遠い。水分を入れておくかと、ゆっくりと身を起こした。
途端、規則的に聴こえていた寝息が途絶える。
「……」
顔を向けないよう視界の端で獅子神の様子を窺うと、彼は目を半眼にしてこちらをぼんやりと眺めていた。碧眼の焦点はどこにも合っておらず、夢現といった様子である。
このまま声をかけず――何も刺激せずにベッドを抜け出てしまえば、再び眠ってしまう程度の意識レベルだろう。
殊更に緩慢な動きでもって膝を立て、次いで掛け布団の端から足先を抜きだそうとした。
しかしそれより先に一方の肩を強く引かれ、ぐるりと振り回されるようにして体がマットレスへ乱暴に沈められる。
「どこ行くんだ?」
低い声が降って来た。碧眼がぎらぎらと剣呑な光を帯び、私を睨め付けている。
恋人がしている不穏な目付きに対する恐れよりも、予兆も迷いもなく成された暴挙への驚きよりも、暗がりに滲む美丈夫にひたすら見惚れてしまう。
遅れて、自身が獅子神に組み敷かれていることに気が付いた。
私の肩を掴む獅子神の力が強まる。
「どこに行くんだよ」
繰り返されたのは問い掛けではなく、威嚇。
反応を返さなかった私を咎めている。
凡そ恋人へ向けているとは思えない、鋭すぎる視線に笑みが零れそうになった。
今ぶつけられているこれこそが、この男の深層にある欲。
私が捕まえた側だと思っていたが、どうやらこの男もまた、私を捕まえたつもりでいたようだ。
「お前はさ」獅子神が再び唸る。
「オレのものだよな」
ああ。これではまるで、毛を逆立てた――
「獣だな」
耐えきれず、言葉と共に笑い混じりの吐息が零れ落ちた。
咎める意図を持たない言葉だったが、投げ掛けられた当人には状況も相俟って深く刺さってしまったらしい。
我に返った獅子神の顔が焦りに染まり、私の肩を掴んでいた手からも力が抜けていく。
「ちがくて、」
「違うのか?」
間髪を容れずに返答した私の様子から、獅子神は私が怒りや恐怖を抱いていないことに気が付いた。獅子神の顔から焦りの感情が消え、かわりに困惑が浮かんでくる。
「獅子神」
顔の横に立てられたままだった腕の袖を引いた。顔には分かりやすく意地の悪い笑みを貼り付けて。
「何が違う?」
「……違わねーな」
ぼす、と獅子神の額がマットレスへ沈んだ。見ずとも、その額や頬が紅潮しているのがわかる。私に覆い被さるようにして重ねられた体が、寝間着越しとは思えない程に熱いからだ。
すぐそばに沈む形の良い後頭部を、遠い方の肩を浮かせて掻き回した。想定通りの熱さだったので、思わずくつくつと笑い声が零れてしまう。
「私はあなたなら、獣でも構わない」
獅子神の拳が空を握り潰すように力む。
彼は逡巡した後、僅かにこちらへ顔を向け、視線を合わせて来た。
「ケモノケモノって、」
眉根を寄せて睨むような目付きをしているが、真っ赤に染まった両頬に潤んだ瞳、尖った唇を晒しているので緊張感は皆無。その上、発した声は普段のものよりも小さく、口籠っていた。――つまり、
「さっきまでケモノだったのはオメーの方だぞ」
今度のこれは威嚇≠ナはなく拗ね=B
私への甘えを含んだ、可愛らしい唸り声だった。
「誘っているのか?」
「は、……はあッ!?」
「フフ」
あたふたと私の上から飛び退く可愛い獣に続き、身を起こす。
違うとか、何を言っているんだとか、照れ隠しに騒がしくしているところを、再び無造作に頭髪を掻き乱して制した。
「水を飲みに行こうとしただけだ。あなたも付いて来ればいい」
「……うん」
獅子神は恥ずかしそうに目を逸らし、小さく頷いた。
そう。
お互いしっかりと水分を摂って巣穴に戻らねば。
もう一度、獣になるために。