【お誘い上手のはなし】


「暫くお前とはシない!」
獅子神を苛め過ぎてしまったある夜。彼は頭まですっぽり布団を被り、そこから顔だけ出してそう息巻いた。
まあ、口だけだろう。次に会った時にはすっかり忘れているに違いない。
そう思ったのがいけなかった。
私は獅子神の拗ねた一言を鼻で笑い、こう言ってしまったのだ。
「あなたが耐えられるとは思えんな」
「……言ったな」
売り言葉に買い言葉。台詞だけならそうだったが、声色に険悪な感情はなかった。
それどころか獅子神は不機嫌顔を一転、したり顔にかえて笑い、こう続けたのである。
「じゃあ、お前がシたいって言うまでセックスはナシ」

――それから彼此ひと月、我々は性交渉をしていない。

正直に言えば、二週間目の中程までは舐めていた。
ひとつ、己の性欲。
獅子神と出会うまで他者に食指が動いたことがなかったので、自分は性欲が弱いのだと思い込んでいた。
ふたつ、獅子神の性欲。
いつだって先に発情するのは獅子神の方だったので、先に音を上げるのも彼だと確信していた。

過去形なのは、それらすべてがそっくりそのまま引っ繰り返ってしまったためである。
自認していたほど己の性欲は弱くなく、一方で獅子神が降参する気配は微塵もない。

その上さらに予想外だったのは、獅子神の技巧についてである。

「なあ、これとかいいんじゃねぇ?」
獅子神宅のリビングテーブルに置かれているのは海外ブランドの家具カタログ。開かれているのはソファが並ぶページである。
その一つ、ゆったりとした一人用のソファを指して獅子神が笑った。
リビングチェアが隙間なく寄せられているせいで、獅子神が身じろぐ度に肩が触れ合う。近すぎて体温も体臭も感じてしまう距離感だ。
「……それは一人用だが」
「そうか? 二人でも座れるだろ、こんな感じにさ」
獅子神は僅かに残っていた距離を詰め、ぴったりと私に寄り添った。
「まあ、広いのもいいよな」
転がれるくらい。そう言いながら、するりと私の手を取り指を絡める。次いで頬を触れそうな程に寄せ、色気をたっぷりと含ませて囁いた。
「村雨はどれがいい?」

そう、これだ。これが最大の予想外だった。
獅子神はこの二週間と少し、ことあるごとにこうして私の性欲を掻き立てることに努めている。

獅子神のこうした行動は、いい加減ほとぼりも冷めただろうと思った頃に始まった。
私はマヌケにも、そこでようやく気がつく。
発情するのは獅子神が先だが、その気になるのはいつだって私が先だということに。
あの夜よりもずっと前から獅子神はそれをよくわかっていたに違いない。
初夜からあの夜までのすべての夜で、私が何の懸念もなく了承するタイミングにこれ以上なく自然な手段で、狙い澄ましてセックスに持ち込み続けてきたのだ。
初夜の緊張ぶりから決して経験豊富ではないと知ってしまっていたがために、正確な状況を認識できていなかった。
しかし、考えてみればそれは当然そうなのだ。
獅子神敬一は、文字通り身一つの状態からここまで成り上がった男。己の外観をどう使えば他人のどこに刺さるのか、よくよく知っているに違いなかった。
つまり、自らの体を使った性的な印象操作≠ノおいては獅子神の方が断然上手い。
「むらさめ」
猫撫で声に続き、わざとらしいリップ音を立てて頬に獅子神の唇が触れる。
距離を取るべく動かそうとした手は既に自由が奪われているため、動かなかった。
咎めるように視線だけやると、「へへっ」獅子神は目を細めて照れくさそうに笑う。
何でもない話に何でもないように返しているのに、獅子神は勝手かつ強引に、けれども丁度うまい具合に甘ったるい合いの手を入れてくる。
強く拒否してしまえばいい話なのだろうが、性技などひとつも知らなかったはずの恋人がこうなった原因が――本人の才によるところも大きいだろうが――間違いなく私にあることを思うと妙な感慨を覚えてしまい、拒みきれないのだ。
「なあ」
繋いでいない片手で、優しく顎を掬われる。目が合うと、爛々とした碧眼は蕩ける様に細まった。
「ちゅうしてい?」
「しただろう、今」
「ちげーよ、くちだよ、くぅち」
獅子神は大袈裟に母音まではっきりと発声し、キスを誘う顔をして見せる。唇を尖らせるのではなく、ひな鳥のように口を開いて。
その上ちらちらと僅かに舌を揺らし、視覚から官能を刺激してくる。今すぐやめろと叫びたいのを抑え、理性的に回答を返した。
「だめだ」
「なんで?」
「なんでもだ」
先々週、これを許して大変ひどい目にあった。
キスを交わすうちにいつの間にか組み敷かれ、執拗に性感を刺激するのに耐え兼ね制止しようとするも顎やら額やらを抑えられて咥内の性感帯という性感帯を舐め回され、無様に揺れようとした腰は片膝で押さえつけられて快感の逃げ場を封じられるものだから頭がどうにかなってしまうところだったのだ。
ようやく終わってみれば、自分だけが顔も衣服も下半身もぐちゃぐちゃ、頭と体は酸欠と疲労でふらふらだった。
――せんせい、なんか言いたいこと、ねぇ?
にんまりと笑って投げられたその問いかけに風呂を貸してくれと答えられたのは、偏になけなしのプライドゆえである。
「んー…、あ、じゃあさ、」
艶気を含んだ低音が囁く。
「舌入れねぇから。それならいいんだろ?」
「だめだ」
「なんで? この前はオッケーだったろ」
「…あれでまた許されると思うか?」
先週はこれを許して非常にひどい目にあった。
まるで深いキスを交わしているかのような息遣いで、ぺろぺろと唇を舐め吸われ、おまけに頭も体も隈なく撫で回された上にがっちりと抱き締められ、こちらの性器の上で尻を揺らすものだから頭がどうにかなってしまうところだったのだ。というか実際に何度も視界は明滅していたし、下着も役目を果たせない状態になっていた。
ことが終わって息も絶え絶えの中、何とか掻き集めた負けん気でこれはセックスに当たるのでは? という非難をしたが、獅子神からは挿入していないからギリセーフ、などという意味不明の主張が返ってきた。
性行為は挿入なしでも成立するものであるし、そうでなくとも性器を挿入していない以外に今までのまぐわいとの相違点が見つからなかったが、今回は挿入を伴うまぐわいを求めた方が負けだということらしかった。
今の状況は明確に私にとって旗色が悪い。
私は獅子神の性感帯を当人以上に熟知しているが、フィジカル差ゆえに獅子神が受け入れない限りは触れることさえ出来ない。つまりこれからも一方的にしてやられる状況が続くのである。
その上さらに問題なのは、獅子神に触れられない、という制限自体が私の欲求不満を加速させていることだ。
正直私は、獅子神とのまぐわいに挿入が伴わなくても不満はない。
私の欲は、ただ獅子神に触れることにのみ向いている。この愛らしい男を己の手で思うように鳴かせたいだけなのだ。
つまり、反撃の手段はなく、そして手段がないこと自体が私を追い詰めている。
「じゃあハグは? さすがにいいだろ? ただのハグ」
自分の有利に自覚がある獅子神は、心底楽しそうに瞳を輝かせて言った。
「だめだ」
これ以上ペースを乱されないよう、努めて平坦な声色で応答する。
「なんで? なにがだめ?」
「…自分の胸に聞いてみるといい」
いつの間にか自由にされていたはずの片手も捕まえられていることに気が付いた。両手とも捕らえたということは、確実に何か仕掛けるつもりだろう。
「覚えがねぇなあ…」
獅子神は身を固くした私の耳元に唇を寄せ、甘い声色で囁いた。肩が跳ねそうになるのを何とかやり過ごす。しかし、
「ん、」
耳殻にぬるりとした感覚。舐められたのだ。
「む、…ん、」
「…や、めろ…、マヌケ…!」
「はぁ…、ん、」
舐める、吸う、食む。それらを私の反応に合わせて使い分けながら、耳から顎、顎から首筋を獅子神の唇が辿っていく。
「んは…、ん、ん……」
「…クソ…ッ」
乱れた熱っぽい吐息が肌にかかる度、熱と息苦しさがこちらにも伝播していった。
「ン…、はぁ…」
最後に鎖骨へ歯を立てられ、ようやく獅子神の熱が肌から遠ざかる。
「言えよ、なあ…」
私の左手を自らの右頬へ導き、頬を摺り寄せて甘えてみせた。哀れっぽい、庇護欲を掻き立てる表情で。
作って見せているであろう顔に無言でいると、今度は掌や指の腹に何度もキスが落とされる。
「ん、ふ…、」
擽ったさに思い切り強く手を引くが、ビクともしない。
逃れようとさらに力を入れると、今度は私の右手を掴んでいるもう一方の手の甲が下腹を掠め、唐突な刺激に尻が浮いた。
触れるか触れないかの加減で何度も行き来する刺激に、理性とプライドが溶けて形を無くしていく。
「ほら、もう、言っちまえって」
獅子神はいかにも参ったような顔をして、そう言った。
恋人の手をこんなにも強い力で拘束しておいて捨て猫のような顔をしてみせるなど、卑劣と言っても過言ではない。
今までどれほどのマヌケがこの顔に騙されてきたのだろうか。
そう思うのに。
「はぁ〜〜〜〜…」
頭を垂れ、大きく長く息を吐き出した。
見ずともわかる。獅子神は一転、喜色満面となったに違いない。
ああ、もう。
そうだ、マヌケはここにいる。
それで構わない。恋とはきっと、そういうものなのだ。
「獅子神」
「なんだ? せぇんせ」
顔を上げると、獅子神は想像通りの笑みを浮かべていた。
己の勝利を確信したのだろう、呼び掛けへの応答も上機嫌だ。
腹立たしい。けれども、それ以上に愛おしいのだから敵わない。
「あなたはひどい男だな」
攻防の終わりを感じて笑む恋人に、せめてもの仕返しの一言を続ける。
「あなただって、毎度準備をして待っていたくせに」
「は?」
見る見るうちに獅子神の顔が真っ赤に染まっていった。
散々大胆にしておいてこんな一言で簡単に振り回されてしまうところも、この男の可愛いところである。
掴まれていた手を引くと今度は容易く自由を取り戻せたので、その手で獅子神の赤く熟れた耳を摘み、唇を寄せた。
――ご所望の誘い文句を吹き込むために。