【君にあげたかったもの】


「ただいま」
「ああ、おかえり」
交流会という名の飲み会を終え帰宅すると、恋人――村雨が迎えてくれた。
リビングテーブルで何か仕事をしていたらしい。姿勢よくしていた背中を反らし、ノートPCから離した手をぐっと伸ばす様は猫のようだ。
「わりーな、待たせちまって」
「構わない」
「飯は?」
「遅くなると聞いていたので、食べてから来た」
「そっか」
退勤後そのままやって来て泊まると連絡をもらった際に、予定があって帰りが遅くなる旨を伝えていた。
日を改めるかと確認もしたのだが、適当に時間を潰して待つと言うので今に至る。
ちなみに家主不在の家に村雨が入れているのは、オレが訪問に合わせて自宅玄関の電子キーを遠隔で解錠したからだ。
「飲んだのか」
少し意外そうに掛けられた声に、予定の詳細について話していなかったことに気付いた。
遅い時間の約束は飲食を伴うことも多く、酒を勧められれば飲みもする。しかし今回はガレージにオレの車がなかったので、酒が入らない席だと予想していたのだろう。
「ああ、代行頼んだんだよ」
今日の会場はアクセスが悪い場所で、帰りはどの道迎車を手配する必要があった。であれば当たり外れのある他人の車より自身の車で帰った方が良い。今日は特にだ。
行動の動機を読み取ったのだろう、村雨はわざとらしい程ににっこりと笑ってみせた。
「あなたのそういうところは好ましいな」
「……ばぁか」
村雨は勘違いをしているが、あくまでこの男のためではなく己のためである。
鋭敏な嗅覚を持つ恋人が家で待っていると言うのに、そういう類の外れを引いてべったり匂いなどつけられてしまった日には、帰宅早々冷ややかな視線を向けられてしまうことになるのだ。
続いた思考も読み取り、村雨は胡散臭い笑顔のまま再び口を開く。
「失敬な。私だって、疲れた恋人を労わる気持ちくらいは持ち合わせている」
「へえ、じゃあ先月の先生にもよろしく言っといてくれ」
「……あれはあなたが悪いが?」
笑顔のサービスを早々と終了して唇を尖らせる姿に、今度はこちらが笑ってしまう。年上ではあるが、こういう、素直に甘えた態度を取るところが村雨の可愛いところなのだ。
リビングテーブル、村雨の斜向かいの席に、纏っていたスリーピーススーツのジャケットを脱いで引っ掛ける。帰路についてすぐに着崩してはいたが、やはり脱いでしまった方が落ち着いた。先に解いてポケットへ納めていたネクタイも引っ張り出し、ジャケットに重ねてやる。
次いでカフスボタンに手をかけたところで、村雨はPCの液晶を掴み、そのまま閉じてしまった。
「いいのか? 途中だっただろ」
「いや、休憩する」
ボタンを外し終えた袖を捲ろうとするより早く、村雨が少しだけ右手をあげた。掌は下を向いている。
手を止めて目線をやると、細い指先がちょこちょこと揺れた。所謂、おいでおいでの動作である。
今日は大分酒も入っているしあまり近寄りたくないのが正直なところだが、村雨の唇が再び尖ったので仕方なく直ぐそばに寄ってやった。
つんと高い鼻先がこちらに向く。
リビングチェアに座ったまま顔を向けているので、村雨の頭はちょうどオレの鳩尾辺りの高さにあった。僅かに上目遣いとなっているその目に、なんとなくそわそわする。
「随分飲んでいるな」
「今日のお目当てがよく飲むヤツだったんだよ」
想像通りの反応に一歩後退しようとしたが、それより先に村雨が大きく手を広げた。ハグを求める合図である。
後退すべきか、求めに応じるべきか、一瞬の逡巡。
「入浴前だ。問題ない」
オレが懸念しているのはハグ後の影響ではなく、村雨が感じるであろうハグ中の不快感だ。
そんなことは村雨も百も承知だろう。つまり返答は懸念点を払拭するためにされたものではなく、ただの催促である。
仕方なくその催促に従い、恋人の頭を抱きしめてやった。
刹那、村雨の体が僅かに緊張する。外から持ち込んでしまった匂いに対する生理的な拒絶反応だ。すぐに緊張を解き隠そうとしていたが、こう密着していては流石にバレバレである。
それ見たことか。そう思うと同時に、細い腕がぎゅうぎゅうとオレの腰に絡んできた。
その上どうやら匂いを嗅いでいるらしい。
嫌な匂いをわざわざ嗅ぐなど、もしやオレの恋人はドMなのではないだろうか。「違う」抱いた頭がもぞもぞと動き、上を向く。マヌケな絵面である。
「必要以上に接触したマヌケがいないか確認している」
「犬かよ」
「恋人だが」
不服そうな顔が再び動き、今度は頬を腹に摺り寄せてきた。数拍の沈黙。そして「フフ」微かな笑い声。
「腸がよく動いているな。健康で大変よろしい」
「オメーが言うとホラーだわ」
ご機嫌に零された言葉に一応返してやり、暫くは動かないであろう頭に触れた。案の定動く気配はなく、腰に絡められていた腕から力が抜けていく。
素直にリラックスしていくのが可愛らしく思えてしまい、その感情のままにその頭を撫で、髪を梳いてやる。
「風呂沸かす?」
「不要だ。それよりあなたは先に入って休むといい」
「いや、お前も日勤だっただろ? 先に入れよ」
「いい。あなたが帰るまで休んでいたから」
「そうか?」
そんなやり取りをしつつ何とはなしに卓上へ目をやると、空のカップが視界に入った。
「じゃあコーヒーだけでも入れてやるよ、デカフェのやつ」
村雨の髪を梳くのをやめ、袖を捲る。
しかし巻き付いた腕が離れる気配は一向にない。
離すよう言うより先に、村雨の方が口を開いた。
「自分でやるから構うな」
素っ気ない声色とは裏腹に、絡んでいた腕が腰から背中に伸びてくる。
言うなれば引っ付く≠ゥら抱きしめる≠ノシフトした感じだ。
どうしたものか。そう思っているところに、村雨はダメ押しの一言を囁いた。
「ただ、もう少しだけこうしていてくれ」
「……ハイハイ」
一層体を寄せてくる男の可愛さに、きゅう、と腹の底が締め付けられるような感覚を覚える。

――まいった。
最近は専ら、この衝動に悩まされている。

常よりこの男を前にするとあれこれ世話を焼きたくなってしまうのだが、可愛いと感じた時には殊更なのだ。
求められているわけでもないのに、何でもかんでもしてやりたくてたまらなくなる。
当然、無理をしている訳ではないので負担はなく、オレ自身の思うようにしているだけなので不満もない。
悩んでいるのはこれが正しい愛し方なのかどうかについてだ。
――オレが村雨の世話を焼くのは愛情からではないのでは?
そう思うとなんだか息が詰まってしまい、動きづらくなってしまう。
勿論村雨のことは好きだ。友情ではなく、明確に愛情を抱いている。
けれどこの欲は、愛情に由来するものとは思えなかった。
もしかしたら、これはオレが過去にして欲しかったことをしているだけなのではないか。そうだとしたら、それはやはりオレ自身への慰めであって村雨へ向けた愛情ではない。
つまりオレは、村雨から感じる純粋な好意や愛情と同じだけのものを返せていないことになる。
フェアじゃないだろう、そんなのは。
だけど。でも。じゃあ。

正しく村雨を愛するには、どうしたらいいのだろう。

「獅子神」
腹に響いた声に、深く沈んでいた意識が急速に引っ張りあげられる。
やってしまった。こんな至近距離で考え込んでしまったら、バレないはずがない。
それどころか、すべて筒抜け――
「落ち着け」
続いた声は凪いでいた。怒りや苛立ちは含まれていない。
追及する気がないのだろう。安堵から、湧き上がっていた焦りの感情が霧散する。
「安心したところ悪いが、とっくに察しているので追及の必要がないだけだ」
「……そりゃそーか」
追及しないのではなく、必要がない。納得である。村雨からすればオレの口より体の方が饒舌な上に正直なのだから。
そしてそれを明かしたということは、今さら逃げも隠れもさせて貰えないのだろう。
「あなたは、私の世話を焼きたくなるのが愛情によるものなのか悩んでいる」
第一声で大正解。しかも、「実にくだらない」余計な一言のおまけ付きだ。
「そういうのって、そっとしとかねぇ? フツーさ」
「十分した。が、一向に改善の兆しが見えん」
「先生、気が短いの自覚した方がいいぜ」
「手を貸してやろうというだけだ。私は優しい恋人の自覚があるので」
いつからバレていたのか。その種明かしは要らない。
数えきれないほど世話を焼いてきたし、そのうち何度か今抱えている悩みが脳裏を過った瞬間があった。村雨はそれに対して表面上無反応を貫きつつ、内心では探っていたに違いない。
だから村雨が口にする内容もきっと、的を得ている。
村雨が身動いだ。思わず、若干血色の悪い顔がこちらに向けられるより早く、その顔を視界に入れないよう顔を背ける。
重要であるほど目を合わせて話したがる男だ。確実に気分を害しただろう。
しかし村雨はオレの不誠実を咎めることなく手術≠ノ取り掛かるらしい。小さく息を吸い、話し始めた。
「確かに、己が求めていたことを他人に施すことで、あなたは癒されている」
言葉のメスが寸分の狂いもなく患部を切り開く。
ひとたび口を開けばこうして核心を突けるのだ。確かにメスを取らずそっとしておくというのは僅かな期間であっても焦れったかっただろう。
「だが、それは主目的ではなく、相手が誰でも良いわけでもない」
「だからあなたが目一杯私を甘やかそうとするのは、」
村雨はもう一度小さく息を吸い、殊更ゆったりと口を開く。重要なことを告げるように。

「――単に、獅子神敬一なりの愛し方だ」

 掛けられた言葉に、心臓が引き絞られた。
高が言葉。口では何とでも言える。
けれど、それを発したのが村雨礼二だというだけで、こうも容易く琴線に触れてしまう。
「私は、己が愛されていることを日々実感している」
受け手である当人がそう言うのなら、正しさなど証明出来なくたって構わない。
「つまり、あなたの懸念は杞憂だ」
これはもう、愛で良い。
「獅子神」
穏やかだった声色に少しだけ棘が交ざる。
顔を向けろという合図だ。
村雨がどんな顔をしているか想像が付くために応じられずにいると、背中に回されていた腕が解かれる。
自由になった指先がオレの頬に触れ、そのまま掌で包まれた。
「獅子神」
今度は合図ではなく、催促。
観念して顔を向けると、想像通りの村雨が視界に入った。
愛しいものを見る目で微笑んでいる。
この顔で見つめられると、とても恥ずかしいのだ。
脳みその中を熱い血液が激しく行き交い、頬も額も熱くなる。
「あなたの愛し方は私を満たしているし、その上あなたを癒している。ただそれだけのこと」
村雨は今日一番の笑顔で、手術≠フ完了を宣言した。
「どうだ。くだらないだろう?」
村雨は穏やかだった笑顔を得意気なものにかえる。
その生意気な顔は、きっと可愛いとは形容されないものだ。
けれど、オレはそんな顔すら可愛いと思えてしまうのだ。
湧き上がる感情のままに体を少し前屈させ、ぎゅう、と小さな頭を抱き締める。
「……確かに、くだらねぇな」
オレの頬を包んでいた掌も再び背中に戻され、同じようにこちらをぎゅうぎゅうと抱き締めてきた。
そのまま暫く、ただ抱き締めあうだけの時間が流れる。
「時に獅子神」
 不意に村雨の腕が緩められた。
「あなたは気が付いていないようだが」
「?」
何か言いたいのだろう。頬のほとぼりが落ち着いたのでこちらも腕を緩めてやる。
上体を丸めていたため、顔を上げた村雨と至近距離で目が合った。赤い目が楽し気に細くなる。
「ここ最近私の目には、」
村雨は少し伸び上がり、オレの耳元に唇を寄せてきた。
そして、囁く。
「あなたの欲しいものが丸見えだった」
「は」
意味を理解するまで数秒。
理解してすぐ、羞恥で血液が再び頭部に集まっていく。
「精々楽しみにしておくといい」

――やっぱりこいつ、可愛くないかも。