【君が欲しかったもの】


獅子神宅の玄関前。ドアホンを鳴らし、重い頭と気怠い体で扉が開くのを待つ。
待ち構えていたのだろう。応答が無い代わりに早々に扉が開かれ、家主が顔を出した。
「うお、思ったより酷そうだな」
顔を見るなり獅子神はそう言い、私の上から下まで観察する。
「…真っ直ぐ帰った方が良かったんじゃねぇ?」
「この家の方が充実している」
観察したことにより尻込みし、弱気な台詞を吐き出すのは想定内。さっさと切り捨てて、ついでに家主の体も避けて獅子神宅に入り込んだ。

今の私は病人である。大病と言うわけではなく、所謂ただの風邪=Bしかし、されど風邪≠ナある。
自宅で一人過ごすより、諸々充実しているこの家で過ごした方が療養期間は短く済む。
――と、いう建前に納得し、数日私の世話をするのだと内心意気込んでいる恋人は大層可愛らしい。マヌケではあるが。
私の弱っている――ように見えているらしい――姿に改めて決意を固くしているマヌケな恋人を尻目に、靴を脱ぎ上がり込む。
そのまま洗面所に足を向けると獅子神も慌てて三和土から上がり、私の後ろを付いてきた。
「声枯れてんな」
「喉をやられている」
発した声はマスク越しであることを考慮しても、くぐもっているというよりは確かに掠れている音だった。職場を出た時よりも一層喉がかさついている。
その違和感に思わず眉を顰めると、獅子神も心配そうに眉を寄せた。
「加湿器と、替えで保湿マスク出しとくな。熱は?」
「まだ高くない」
「熱上がる前にこのまま風呂入っちゃえよ、あとで寝巻ここ置いとくからさ」
「わかった」
手洗いうがいを済ませる私の後ろ、洗面台の鏡越しに見た獅子神は、収納棚からバスタオルを取り出している。
先日のやり取りからこっち、遠慮なく思うように私の世話を焼くようになった獅子神は、それはもう可愛い。勿論口に出すことはしないが、可愛くて仕方がない。
だがしかし。
あなたは今の状況をよくよく考えるべきである。
「獅子神」
「ん?」
バスタオルをいつも通りの場所に準備し終えた獅子神へ声を掛けるが、戻ってきたのはマヌケな返事。
「あなたに私の看病をさせてやる」
「偉そうにしないと死ぬ風邪?」
仕方なく今の状況を分かりやすく説明してやったにも関わらず、今度は無礼な返事が戻ってきた。もう少し噛み砕いてやる必要があるらしい。
「マヌケ。私を好きに看病していいと言っているんだ」
「はあ?」
獅子神の口から零れたのはマヌケな二文字だったが、視線はこちらを観察するものに切り替わった。ようやく私の言が戯言ではないと気付き、言わんとしていることを理解しようとする姿勢になったのだ。
遅過ぎるが、そもそも浮かれている状態だったので多少許容すべきだろう。
「あなたがこうなったとき、」
マスクのせいで見えづらい表情と聞き取りづらい声色を読み取るために、獅子神は目を凝らし耳をそばだてている。
「私はあなたに倣って看病する」
当然、言葉の通りではない。出来る看病なら何だってしてやりたいし、してやるつもりだ。

だからこれは、
あなたのして欲しいことを教えてくれ
そういう、懇願のようなもの。
「……ふぅん」
やっと正しく受け取った獅子神は、気のない返事をしながらも頬を僅かに染めている。照れているのだろう。
意図に気付いてすぐに逸らされた視線は、一点を見つめ、時折小さく揺れる。記憶を思い返して己の欲を探しているようだ。

その様子に、私の脳裏にも幼少の記憶が過る。
寒いと震えれば寝具を追加された。頭が痛いと訴えれば氷枕を渡された。咳が酷くなれば背中を擦ってもらったし、喉が痛むから冷たいものが食べたい、と要求すればゼリーやプリンが与えられた。
その上、父母や兄が代わる代わる様子を見に来てくれたものだ。

あれらはきっと、愛情だった。
そして今日、この男も同じようなことをするに違いない。

私が連絡した時点で病人が食べやすいものを準備しているだろうし、寝具やその他諸々も整え終えている。
床に入ってからの私の様子だって、何度も見に来るはず。
間違いなくそれらは獅子神敬一の愛情だ。貰えるのは勿論嬉しい。けれど。

私はそれ以上に、獅子神敬一が最も欲しているものが知りたいのだ。

その中のどれが、もしくはそれ以外のなにが一番獅子神の心を満たすのか。ただそれが知りたい。
「じゃあ……」
長いようで短かった沈黙を、獅子神が恐々破る。
続く言葉を急かさずに待ってやると、暫くして意を決したのか、私としっかりと目を合わせてきた。次いで、はっきりと発する。
「触ってもいいか?」
「? ああ」
触る? どこを? 何故?
そう思ったが、無体を働かれるはずもないのでそのまま大人しく待っていると、獅子神は迷いなく私の首元に手を伸ばしてきた。
大きな両掌が、首を撫で、頬を包む。
頬が冷えて気持ちが良い。普段は獅子神の方が体温が高いので、こんな時でもなければ味わえない感覚だ。
心地よさに思わずうっとりしていると、片手が頬の上方へ滑っていく。そしてその手は、ぴたりと額に当てられた。
まさか。
いや、まさか!
「すでに結構あるな、熱」

まさかこれがこの男のして欲しいことだと!
――私の恋人、可愛過ぎでは?

「マジで大丈夫か? すげぇ顔熱くなってきたけど…」
こちらを心配する獅子神の顔は近い。
彼の一連の行動により、急激に体温が上昇してしまったのがわかる。
「獅子神」
 己の体調を考えれば、マスクを着けているとはいえ至近距離で話すのは良くない。良くないが。
「私の体調が悪くて良かったな」
「……いや、なんで?」
命拾いしたぞ、あなた。